インタビュー記事

interview

第11回 跡部信行 氏

atobe_main

今回は、10年で一躍、有名一流企業へと成長を遂げた、「楽天」のインフラを支えてきた「跡部信行」氏にお話を伺います。跡部氏は、楽天を支えるコアエンジニアの一人です。編集記者出身という経歴から、最近ご担当なさっている本格的な国際展開についてじっくりお聞きいたしました。なお、取材会場は、最近移転をした品川シーサイド駅にある「楽天タワー」の会議室です。楽天研究所の小林義法様、広報部の相馬円香様にも同席をいただいております。

※取材日は、200711月です。所属や役職などは当時のまま掲載しております。

<PCとの出会いは?>
川井 改めまして、よろしくお願いいたします。まずはPCとの出会いをお聞きしたいのですが。
跡部 パソコンを最初にやったのは、ある種王道で、小学校のときでした。親にPC8001を買ってもらって、グリーンモニターで「ぴーひょろろ」とかをやっていました。たまたま親戚に詳しい人がいて、「これからはパソコンの時代だ」って言ってくれたのがきっかけでしたね。当時はN-BASICでしたっけね。そこからBASICマガジンを買って、ログイン(LOGiN)とかその辺も買って、ちょこちょこ遊んでいたって感じですね。
川井 最初の動機がゲームって方がかなり多いんですけど、そのあたりはいかがでしょうか?
跡部 自分から親に言い出した記憶はありませんが、確かにゲームか最初のきっかけでしたね。頸文社の大百科でAtariとかでこんなゲームがあるとか書いてあるとそれを探したりとかしていました。PC8001ってあまりゲームがなかったのです。「ちょっとゲームが少ないから、何して遊ぶ?」ってときに、本に書いているプログラムとかを写してみたりして、そんな感じからやっていましたね。
川井 じゃあ、あまりゲームがどうしてもやりたいからというよりは、純粋にパソコンをいじりたかったという感じなんですよね?
跡部 そうですね。確かにとっかかりはゲームで、PC8001でゲームとかできると喜んでいましたが、当時、ファミコンの方がゲームとしての完成度は高かったんですよね(笑)
川井 なるほど、それはそうですね。その後、パソコンとのつきあいはどんな感じだったんですか?
跡部 そのあと、中学校のときにPC8801MHを買いました。X1とかFM-7とかグラフィカルなものがでてきて、惹かれるように情報を追っていました。
川井 雑誌も引き続き読まれていたんですか?
跡部 頸文社の大百科でAppleがあるのを見ていました。でも、そのあとはプログラムには深入りしませんでした。引き続きゲームをしたり、MIDIのスコアをデータ化したものをコピーしていたような記憶があります。

その後の流れは?
川井 その後は、どんな風に過ごしたんでしょうか?
跡部 私、出身が北海道でして、大学のときに東京に出てきました。特段、目的意識が高い方ではなかったので、法学部でありながら、もっぱらサークル活動に専念していました。映画研究会に入り、8㎜を撮ったり、映画を見にいったり、昔の大学生を真似してみんなで文学を読んでいましたね。おそらく、父親の影響でしょうか、大学に入ったら昔の大学生みたいなことがやりたかったんのだと思います。文学書を読みあさり、映画に通い詰めといった具合です。(笑)さすがに学生運動はしませんでしたが、政治やジャーナリズムに興味を持ち、新聞記者になることを夢みていました。残念ながら、結局はその道には進めませんでしたが。
川井 それで、結局どういう方向に進んだんですか?
跡部 先輩がテレビ報道番組の仕事をしていたので、彼に誘われてアルバイトをはじめたのが報道の世界に入るきっかけとなりました。テレビ番組のアシスタンドディレクター(AD)という仕事をしていた訳ですが、実際には資料集めやカンペの準備が日常業務した。その時、番組調査をする機会があり、昔からパソコンをやっていたという経緯もあり、情報収集の手伝いもしていました。確かIBMのノートPCでバタフライって呼ばれていた中古ものを買い、Gサーチ等で書籍検索をしていました。そのうち、昔と違ってPCは単にローカルではなく、通信でつながることを知り、(当時、ニフティが凄い勢いを増していたので)、多種多様な情報収集が可能だということを発見し、「なんか変わりつつあるなあ」とパソコンが魅力的な、新たなものに見えてきたのでした。
川井 インターネットがきっかけなんですかね?
跡部 そうですね。まあ、当時は、まだニフティやパソコン通信が中心で、巡回ソフトをニフタームにつないで、自動的にデータを切り取りするような状況でしたが。インターネットもニフティ経由で接続しましたが、海外の英語の情報に触れられることに驚いた記憶があります。
川井 それでも、まだパソコンを仕事にっていう思いはなかったんですか?
跡部 もともとはジャーナリズム志望だったので、当時はまだ情報ツールとしてしか使っていませんでした。プログラミングという意識はほとんどなかったと思います。ただ、テレビのアルバイトの中で、若者向けの討論番組をやっていたので、私らの世代は人数も多く、バブル崩壊後という時代背景がありました。不況という世紀末的なムードもあり、オウムや阪神大震災も重なって、鬱屈した空気がありました。そんな中でも、インターネットはもの凄い可能性を持ったツールに見えてきた訳でして、最初は、ある種エマージング的な存在として興味がありました。気づけば、すっかり関心をもって番組提案のテーマにもしていました。
川井 ちなみに就職は?
跡部 もともとテレビよりも活字の方に興味があったので、新聞社を志望しましたが、うまくいかず、たまたま隣の番組の人からASCIIで新しい雑誌報道記者を募集している話を頂いたのです。それがきっかけでASCIIに入社しました。社会人1年目は「週刊ASCII」の編集記者を契約社員でやりました。当時のASCIIは、元SPA編集長だった渡邉直樹さんが編集長だったのですが、ダブルフェイス(左右両開きの装丁)だったり等、最近のASCIIとは大分テイストが違っていました。最初は報道部というところに入って、いろんなニュース記事を書いたりしていました。報道って言っても、「ASCII」ですし、やっぱりインターネットに興味があったんで、「酒鬼薔薇事件のときのインターネットの動き」とか「インターネット墓地」の取材とか行ったりしていましたね。
川井 インターネットに関わるニュースネタを集めて記事にしていたってことですね。
跡部 そうですね。当時は「2ちゃんねる」がまだなくて、匿名掲示板の「あやしいわーるど」というのがあったりしたんですが、そういった世の中の動きに対してのネットのリアクションなんかを取り上げて記事にしていました。
川井 楽しそうなお仕事ですね。
跡部 楽しかったんですが、雑誌自体はうまくいかなくて半年くらいで休刊になってしまったんです。今の「週刊ASCII」って実は、「EYE・COM」っていう雑誌が元になっていて、そのEYE・COMの人たちがEYE・COMのテイストを継承してタイトルだけ「週刊ASCII」で出しなおしたものなんです。当時、西さんから集められて「休刊するけど、どうする?」っていわれて、他の部署にいくとかいう選択肢もあったんですが、挫折感が大きかったり、ちょっともともとイメージしていた仕事と違った感じもしていたので、私はそのタイミングで退職したんです。編集者っていうのは、人付き合いとかコラボレーションが必要で、作家や協力会社の人たちとうまく連携して材料を集めてきて、ネタにするかってところが大事だと思うんですけれど、私はどっちかっていうと編集者よりはもっと記者みたいな仕事の方がやりたかったりもしたんです。それもあって「知りたい」っていう気持ちが先行して、その気持ち中心で仕事をしていたのもあったのか、編集者としては、あまり上手くいかなかったんですよね。それで退職して、そのあと半年はニートをしていました。
川井 ええ!そうなんですか。
跡部 そうです・・・。
川井 これは遊んじゃおうっていう開き直りでもなくて惰性でずるずるという感じですか?
跡部 自信を失くして、現実から逃げていた気がします。
川井 何歳くらいのときになりますか?
跡部 26歳のときです。当時の自分と比べて今の26歳くらいの人が、ばりばり仕事している人を見ると、改めて感心します。
川井 その半年間は何をしていたんですか?
跡部 完全に引きこもっていましたね。今の言葉でいうと「ひきこでニート」ですよね。家で何をやっていたかっていうともうゲームばっかりやってました。アメリカの3DゲームでTANARUSっていうオンラインゲームだったんですよ。4チームに分かれて戦車で戦うゲームで結構熱くて、英語でチャットしながらやるんです。当時のアメリカではまだβ版で、日本語版を作るっていうときに私がマニュアルを書いたりしたんですが、それだけはまっていたんですよ。
川井 無償でやられていたんですか?
跡部 β版テスターだったんで、基本は無償ですね。反対に通信費が異常にかかっていて、この頃は「テレホーダイ」が始まっていたんですけど、その時間をこえて遊んでいて、月5万とかまでかかっていたんです。「ひきこでニート」なのにゲームでこんなに親の金をつかって、なんたる親不孝って感じでしたね。こりゃ武勇伝どころか全然手本にもならないですね(笑)
川井 いやいや、これからですよね(笑)
跡部 それからは、もうテレホ生活で昼夜逆転してて体調もよくないし、夢も希望もなかったんですが、「そろそろ気負わずに働いてみたらどうだい」って親からも言われて、このやっと働いてみようかなって思ったんです。その時に得意分野を仕事にできたらいいかなって思って考えていて、やっぱり昔のPC8001からやっているパソコンかなって気持ちになったのと、インターネットが盛り上がっていて、実際にユーザーとしても面白いなって思っていましたから、ここをやるしかないなって思ったんです。
川井 なるほど。
跡部 それで就職情報誌を見て最初に門を叩いたのは、2次請け、3次請けをやってるSierでした。そこは家から近いっていうのと、ストリーミングをやっていたんですよね。私はもともとメディアとかにいたんで、面白そうなことができるかなって思って門を叩いたんです。で、入社して最初にやらされたのがVBAでしたね。プログラムの実務経験はないんで、とりあえずVBAをやって、ACCESSで動かしたりしていたんですが、そうこうしているうちに何故か関西の企業の新人研修の補助講師をやれって言われたんですよ。
一同 (笑)
跡部 VBやって3ヶ月で補助講師やれって・・・感じですよね。まあ補助なんで、大変なあれでもなかったんですけどね。もともと社長にはネットワーク系の仕事とかストリーミングの仕事をやりたいって言っていたのですが、次はプロバイダーに常駐してルーターとかスイッチ触る仕事があるんだけどやってみないかと言われたんです。それで、1998年5月くらいですかね、NTT系のISPに常駐で仕事をするようになったんです。やっていたのは、専用線サービスの開通工事調整とかルーターの設定とかでした。対抗側の顧客のルーターとかスイッチの設定とかもしていましたね。3年半くらいですかね。それが一番大きかったですね。まだ会社も大きくなかったので、結構なことをやらせてもらえてり、スーパーなエンジニアの方がいたりして、その人に噛り付いていろいろ覚えたりしました。
川井 かなり楽しかったんですよね?
跡部 そうですね。ルーターとかインターネットを作っている根幹のところでもあるし、ルーターとかを使って実際に通信が流れてつながっていくみたいなものが楽しかったですよね。
川井 ずっとニートをやっていたのに、いきなり忙しくなっておまけに常駐先に1人で行かされてという状況で抵抗感とか違和感とか負担感とかはなかったんですか?
跡部 いざ仕事を始めたら、もうそういうモードになっていたので、大丈夫だったんですが、実はまだTANARUSとかもやっていて睡眠不足なんで、前任者からの引継ぎの打ち合わせの最中にこっくりこっくりしていたりとか、こっそりトイレで寝ていたりとかひどいことしていましたね(笑)
川井 まあ、そういうこともありますよね(笑)
跡部 でも、いい先輩がいたんですよ。一度「ちょっとこれやってごらん」ってその先輩にいわれて、ルーターをいじっていたら反応しなくなって、いきなりサイレンの大きな音が鳴ったんですよ。そしたら先輩が「跡部さん、今なにしたかわかる? 今、お客さんの落としたんやで」って言うんです。びっくりしましたよ。「なんでこの人注意しないの!」みたいな。
川井 その先輩、面白いですね(笑)
跡部 そのとき、大事なものを扱っているんだなと感じましたね。自分の業務でいろんなところに影響が出るし、大切な仕事をしているんだなって、仕事に集中しなければいけないなって思い知らされたイベントでした。
川井 まさに身をもってですね。
跡部 教育のためにわざとやったのか、それとも単に見落としていたのか分からないですが、どのみち責任はとらされたでしょうからねえ。
川井 それが今でも生きているわけですよね。
跡部 そうですね。大事な通信を見ているわけですからね。ルーターってBGPとかで喋れば世界中につながっていて、自分たちが何かおかしなことをやると世界中に影響を与える可能性があるわけなんですよ。BGPって、ボーダーゲートウェイプロトコルの略でISP同士が喋るルーティングプロトコルなんですが、これはもうネットワークエンジニアの聖域みたいなもので、触ることができるのは「誉れ」みたいなものなんです。ですので、仕事の大切さを知ると同時に、本質的なところを知らないとやっぱり駄目だなって思って、技術の深いところを知りたいというモチベーションが芽生えてきましたね。
川井 なるほど。ここも3年半くらいですか?
跡部 そうですね。でもやっぱり常駐パートナーなので、あまり深いところはタッチできないじゃないですか。ダイナミックルーティングの世界とかは難しいですよね。一方で私もキャリアを上げたかったし、この世界に入ったのが遅くて、年令的にもいっていましたから、自分で勉強もしていたんですよ。Request for Comments (以下RFC)を読んだりとか英語のドキュメントを取り寄せて読んだりとか。結局、それで飽き足りなくなって、じゃあ、やっぱり転職しようと思ったんです。
川井 なるほど。
跡部 その時、ちょうどインターネットバブルの最中で、外資が大挙して押し寄せてきてて、AboveNetとかExodusとかグローバルクロッシングとか、いろいろな会社が出てきているときだったので、これはいいやと思って、台湾人が社長のデータセンターのベンチャー企業に転職しました。
川井 外資系のベンチャーですか。
跡部 そうですね。ネットワークの業界ってちょっと特殊だなと思うところがあるんです。やっぱりそんなに大きなネットワークを触れる会社っていうのは限られていて、まあ、だいたいプロバイダーとかが多いんですけど、NTTとかKDDIとかキャリア系が多いじゃないですか。そうすると少人数の正社員で、徒弟制みたいな感じの世界が多かったんですよね。先輩から後輩へ口伝とかで伝えていく職人の世界なんです。そうすると私みたいに途中から入ってくるとなかなかうまくいかないじゃないかなって思っていたんですけど、そこに外資がどんどん新しく仕事を作っていたんで、いい機会だなって思っていました。
川井 それで、その会社はいかがだったんですか?
跡部 最初は驚きました。先輩にあたる人は殆どいなく、戸惑いました。でも逆にそれがあってすごいチャンスをいただけて、それまでは、言われたことをこなすだけの世界だったんですけど、ここでは、どんどん私の言うことを吸い上げてもらえるんですよ。そしてビジネスに直結するようなことも担ったりとかして、結構、力をつけられたなって感じがします。面白かったのは、台湾とアメリカと日本と中国にデータセンターがあって、全部つないでいたんですけど、一番技術的にコアな人は台湾にいて、日本のデータセンターのネットワークとかも台湾が設計して構築していたんですね。結局、こっちもそんなに力のある人がいないから全部台湾が主導みたいな感じだったんですけど、「俺ができるからやらせろ、やらせろ」って言って、IRCとかでチャットしながらいろいろ訴えて、仕事も少しずつ認めてもらって、日本独自でいろいろできるようになったんです。海外と仕事をするっていうのは、なかなか面白かったですね。
川井 それが、現在の「国際」というミッションに繋がってくるんですかね?
跡部 私はそう思っていますね。
川井 この会社には何年くらいいたんですか?
跡部 この会社は1年くらいですね。もともとワールドワイドにイケイケでやっていたんですけど、事業が立ちいかなくなってしまってクローズする方向だったんです。それでその会社に出資していた財閥系のM社がデータセンター事業を買収、私も転籍をした形になりました。
川井 人生いろいろですね。
跡部 本当にいろいろですね。転職回数は多いですけど、在籍期間は今の楽天が一番長いですね。
川井 まだ、楽天さんの前に何社かあるんですか?
跡部 いえ、M社に半年くらいいて、そのあとは楽天ですね。
川井 楽天さんに入ったのはどんなきっかけだったんですか?
跡部 そうですね。前の会社がM社さんに事業買収されて、ちょっと「負けた感」があったんですよね。前はベンチャーベンチャーしていたんですけど、M社さんは歴史のある会社ですから、それなりに経験のある方がしっかり上の方を固めていたりしていたので、前みたいなインターネットがエマージングで若者がのし上がれる下克上みたいなものがイメージできなくなったんですよ。あともう1つあるとすれば、もともとデータセンターとかISPとか大きなインフラの世界でやっていたんですが、ラックの中にある世界ってまったくノータッチだったんです。なので、サーバーとかロードバランサーとか、ネットワークエンジニアとしてそういうものに振れて幅を広げたかったっていうのがありますね。そんなことを考えているときに、たまたま知り合いから、「楽天でネットワークエンジニアを募集してるよ」って聞いたんです。それで今のプロデュース系の執行役員の和田圭さんに面接をしてもらって、「いろんなことができるよ」とか「どんなネットワークを作っていくか一緒にやろうぜ」って言われて、面白そうだなって思って入社したんですよ。
川井 なるほど。これって何歳くらいのときですか?
跡部 これは31歳くらいですかね。2002年ですね。
川井 じゃあ、6年くらいになるんですね。
跡部 そうですね、6年目ですね。
川井 入社してからは、どうだったんですか?
跡部 当時はまだ楽天もスタートアップ時期で、ビジネスでは相当成功したんですが、ネットワークの部分ではそんなに詳しい人がいなかったんですね。すごくシンプルなネットワークで、VLANとかセグメントも分かれてなくて、結構、障害が多かったですね。スパニングツリーっていうのがあるんですけど、それがループしてしまったりして年末商戦の大事な時期に止まってしまうとかあって、このままじゃネットワークが駄目だねって話で、ベンダーさんからも提案を受けて、新しいネットワークを構築しようっていうタイミングにちょうど私が入社したんです。前の仕事での経験もあったので、すぐにそこに参加させてもらって、いろいろ提案なんかも聞いてもらえましたね。
川井 かなりの成果をあげたんじゃないですか?
跡部 そうですね。当時のネットワークと比べると相当最適化されて変わってはいますね。トラフィックも当時は100Mbpsくらいだったんですが、今、10Gbps近くなっているんですよ。通信量も莫大に増えているし、サーバーの数もかなり増えています。ビジネスに成功して、アクセスが右肩あがりに増え続ける中で、いかにスケーラブルなネットワークとかシステムとかインフラを作るかがとてもチャレンジングだし、トライ&エラーではあったんですが、広げていくたびにもっとこういう風にしようって、自分たちの頭で考えて改変していって、今は結構スケーラブルな仕組みになっていると思うんですよ。自分たちの力をおもいっきり発揮できたかなって思っています。
川井 今は、そういうインフラの世界を完全に離れて、新しいミッションにつかれているんですか?
跡部 昨年、ショウタイムっていう関連会社に出向していて、ストリーミングのインフラの企画設計とか、営業とかしたりしまして、インフラエンジニア専業からは離れています。
川井 国際開発室に異動されたのは今年からですか?
跡部 人事発令は10月1日でした。
川井 じゃあ、着任したばかりなんですね。来てみていかがですか?
跡部 社長が言っている通り、海外に進んでいこうと思っているんですが、新しい挑戦をなので、皆、「新しいものを創るぞ」って意気込みでやっていて、なかなか活気があって面白いですね。自分の役割はどちらかというと手を動かすところよりもプロジェクトマネジメントに寄っていてですね、結構自分としてはRFC読んだりとかパケットキャプチャーしたりとか細かいところを積み重ねて、ボトムアップ的に作っていくのが得意だったのですけど、プロジェクトをマネジメントするっていうことには本格的に取り組んだことがなかったので、でも自分の中では新しい挑戦だなって刺激的に感じています。
川井 常にステップアップしたりチャレンジャブルに取り組んでこられている感じがしますね。
跡部 楽天に入る前も、今は何をすべきなのか自分で考えて、常にアクションをとり続けてきたと思っていますが、楽天は、本当に右肩あがりなので、仕事は増えますが、新しいことに取り組むカルチャーがあります。その中で新しいことやらなければいけないなというのもありますし、自分でも新しいことを常にやりたいという気持ちもあります。
相馬 「成長する会社、成長する社員」のところですね。
跡部 この会社いいなあって思うのは、そういう部分に対しては、真面目にそう思っている人が多くて、自分も磨けるし、会社もそれを後押しすることに本気で取り組んでいるんですよね。エンジニアってキャリアステップが見えにくいじゃないですか。私もある意味悩んでいるところもあるんですが、チャンスが転がっていて可能性があるので、もがき続けて頑張ってみようかなって思っています。

将来の方向性は?
川井 もがき続けるというお話でしたが、将来はどういった方向にいこうとかありますか? 
跡部 私が、なぜ今国際室なのかというと、このITの世界ってやっぱりアメリカ発ですよね。最近でこそRubyのまつもとゆきひろさんもいますが、RFCを書くのも外国の方が多いし、どうしても世界っていうものを意識せざるを得ないと思うんですよ。その世界という同じフィールドでやってみたいとか戦ってみたいという思いは強いですね。
川井 それは技術者としてですか?
跡部 技術者としてもそうですし、ビジネスマンとしても一個人としてもそうですね。これまでネットワークできましたけど、今後はプロジェクトマネジメントとか企画の方とか幅を広げて、経営に近いところまでやっていきたいなと思います。
川井 なるほど。
跡部 実は私、マネージャーコースを自ら降りました。楽天では、マネージャーコースとアーキテクトコースがあります。現在、そのアーキテクトコースが「スペシャリストコース」という名称に変更しています。自分の目標を達成するためには、いくつかのステップがあり、必ずしもスキルアップがマネージャーになることではないと思います。どういう経験が必要なタイミングであるかを自分で見極め、人のマネジメントではなく、プロジェクトマネジメントのように、現場に近いところのスキルアップを図りたいと思います。
川井 これは選んだり、途中で変更したりできるんですか?
跡部 そうですね。半期毎に希望を出す人事制度になっています。
相馬 まずは賃金体系を定義する「格付け」という区分があり、横串にランクがあって、そこにマネジメントかスペシャリストかというコースがあるという形ですね。
川井 複線人事というやつですね。IT系企業のまさに課題の部分なので、これはいいですね。
跡部 そうですね。前は当社にはそういう制度がなかったので、先が見えないとエンジニアもいました。そこで、会社側がそういう選択肢(人事コース)を作り、トップダウンではなく、ボトムアップ的な制度になっていきました。
川井 なるほど。この人事制度はいつ頃からスタートしたんですか?
相馬 昨年に大きく変わったばかりですから、まだまだ試行錯誤という段階です。
川井 すごいインパクトがありますね。
跡部 今の開発統括本部長の杉原章郎が三木谷に対して、「エンジニアの今の状況を考え、価値を認めていきましょう」と提言したことからこの制度が認定されました。
川井 すごい改革ですね。

若いエンジニアにアドバイスを
川井 最後に若いエンジニアにアドバイスをいただけませんでしょうか。
跡部 最近の若い人たちって大変だと思うんですよね。私の若い頃はインターネットって不安定だよねって時代で、少しくらい失敗してもそんなにビジネスに影響はなかったので、かなりドラスティックにやれていたんですけど、今は楽天も含めて、ビジネスとして組織化している部分が増えたので、なかなか冒険もしづらいと思います。特にインフラ系にいえることだと思いますが、その中でも特にチャレンジして、自分で働きかけて新しいものにトライしていくということは是非、やり続けてもらいたいと思います。それをやるためには、その裏打ちとなる勉強や経験が必要です。そこもストイックに1次情報にあたってやってほしいですね。プログラマーならコードを読むことになるし、インフラ系担当ならRFCを読むとか、アプライアンス製品を使っているネットワークエンジニアならメーカーでどういう風に作っているのか、あるいはハードウェアのアーキテクチャーや物理レイアウトはどうなっているのかとか、そのくらいまで1次情報にあたってそこから積み上げて、その上で自分の血肉にして、経験を積むために仕事を創り出していってほしいなと思います。失敗を恐れないで、何事にもまず取り組んで欲しいですね。若い人の特権って物をもってない、背負っているものがない、ということだと思います。若い人こそが新しいことをやらなければいけないと思います。
川井 最近の若い人の中には挫折を知らないという人が結構多くて、失敗するのが怖いっていうんですよね。「失敗するのが怖いのでできませんでした」みたいな。
跡部 失敗して、当たり前です。私も沢山の失敗をしてきて、それを恐れてもきましたが、いま振り返ってみると、たいしたことではありません。是非、恐れずにチャレンジしてほしいです。
川井 いや、本当に跡部さんは、ストイックで自分自身に厳しい方ですね。お話の端々にそういう一面が垣間見られました。本日は、本当にありがとうございました。
跡部 ストイックなのが本当にいいことなのかどうかは分らないですけどね(笑)
こちらこそありがとうございました。

【プロフィール】
1971年 北海道函館市生まれ。
1997年 明治大学法学部卒業後、アスキーにて雑誌編集記者。
1998年 株式会社エクストップ シンクタンクにてISP等にて委託業務
2000年12月 アットネットワークジャパン株式会社にて、データセンター事業企画、システム設計・構築・運用を担当
2001年12月 事業譲渡により、三井情報開発株式会社に移籍。
2002年8月 楽天株式会社に入社。ネットワーク設計・構築・運用を担当
現在は国際展開業務のプロジェクトマネジメント業務を推進

LINEで送る
Pocket

TO TOP