インタビュー記事

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第30回 倉貫義人 氏

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TISの倉貫義人さんにお話を伺いました。倉貫さんは、TISの中でも最も優秀なエンジニアの一人と言われるトップエンジニアで、XPJapanUsersGroup(XPJUG)の会長も務めておられます。( http://xpjug.org )倉貫さんは、従来のウォーターフォール型の開発における弊害や問題点を通じて、XPやアジャイルといった開発に目覚めた過程や思いをじっくりと語っていただきました。

※取材日は、2008年7月です。所属や役職などは当時のまま掲載しております。

<PCとの出会いは?>
川井 宜しくお願いします。
倉貫 宜しくお願いします。
川井 今おいくつですか?
倉貫 今34歳です。
川井 ロールモデルとしては非常に参考になる年齢ですよね。先日、TISの知り合いの方とお会いしたんですけど、倉貫さんはTISで技術としては第一人者だと仰っていまして、そういう第一人者の方のお話が聞けるのは非常によい機会だと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
倉貫 いえいえ。こちらこそよろしくお願いします。
川井 そうはいってもいきなり語って頂いても雲の上の方だと思うので、まずは生い立ちからお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか?
倉貫 はい。どのインタビューもそうですよね(笑)
川井 最初のパソコンとの出会いはいつぐらいだったんですか?
倉貫 一番最初にコンピューターに触った記憶は、ファミコンですね。
川井 ファミコンなんですね。
倉貫 小学校4年生ぐらいにファミコンを父親が買ってきまして、最初はゲームをやっていたんですけど、ファミコンのファミリーベーシックというキーボード付きのプログラムが組めるものが発売されて、それを父親が買ってきまして、子供ながらに横で見ながら覚えて、自分でプログラムを組むようになったのがおそらく最初ですね。
川井 それが小学校なんですか?
倉貫 そうですね。小学校4年ぐらいですね。
川井 もともとモノづくりとか機械に興味を持たれていたんですか?
倉貫 そうですね。機械にはあまり興味はなかったんですけど、粘土で何か作るとか、レゴとか大好きでしたね。
川井 なるほど、レゴが好きだったんですね。じゃあ組み立てることとかが好きなんですかね?レゴも組み立てますもんね。
倉貫 そうですね。機械機械とかあまり私燃えないんですよね。
川井 じゃあソフト寄りなんですね。
倉貫 そうですね、ソフト寄りですね。
川井 作ってたのはゲームなどを作られてたんですか?
倉貫 そうですね。マリオを動かしてみたりとかしてました。
川井 へ~。ゲームはお好きだったんですか?
倉貫 そうですね、好きでしたね。
川井 お父さんはそういったコンピューター関係の方なんですか?
倉貫 いえ、普通のサラリーマンで、父親はすぐ飽きてやらなくなって、私だけがずっとファミリーベーシックで遊んでました(笑)
川井 そういうのが許される家庭だったんですね。
倉貫 そうですね。
川井 なるほどなるほど。ファミリーベーシックって今までのインタビューでは初めてのパターンかもしれませんね。年齢層的にも初めてかもしれません。
倉貫 ああ、そうなんですか。ちょっとなんちゃってとかに入りますかね(笑)
川井 いえいえ(笑)ファミリーベーシックの次の進化はどういかれたんですか?
倉貫 次の進化はどうだったかな・・・記憶にあるのは、MSXっていう家電みたいなパソコンみたいなのを中学生ぐらいにねだって買ってもらった記憶がありますね。
川井 これは王道ですね。
倉貫 そうですね。それで、雑誌にプログラムが書いてあるのを自分で仕込んだりしてました。
川井 雑誌はベーマガとかですか?
倉貫 そうです。
川井 これが小学校6年ぐらいですか?
倉貫 中学生ぐらいですね。
川井 それぐらいなんですね。コンピューターやソフトへの興味っていうのはその後どういう風に継続されていったんですか?
倉貫 なんでしょうね・・やっぱりプログラムが楽しかったんですよね。自分で書いたものが動くじゃないですか。そういう体験ってなかなかないので、それが楽しかったですね。
川井 動くのが楽しかったんですね。
倉貫 そうですね。
川井 なるほど。何か他に運動とか趣味とかはありましたか?
倉貫 特にやっていませんでしたね。
川井 そしたら結構ふんだんにコンピューターに時間を使えたわけですね。
倉貫 そうですね(笑)
川井 へ~。そういう感じだと、当時ってクラスの中でどうだったんですか?クラスの中にはあまりそういうタイプの人っていないですよね。大体クラスに一人か二人というイメージがあるんですけども。
倉貫 そうですね。あまりコンピューターについて語り合う仲間はいなかったですね。
川井 なるほどなるほど。中学校にいかれて、その後は今度はどういった進化をされていったんですか?
倉貫 次は高校時代ですね。高校時代は高知県にある明徳義塾という全寮制の高校に入ったんです。寮に入ったので、高校1・2年はコンピューターから離れていました。3年生になる頃に、当時学校でコンピューター教育を取り入れていこうみたいなのがありまして、とはいえ学校の中にコンピューターに詳しい人間は教師含めて誰もいないということで、最初生徒ながらに私が手伝うことになりまして、コンピューター室の最初の室長みたいな感じで鍵を持たされたんです(笑)
川井 すごいですね(笑)
倉貫 だから私は自由に出入りできてよかったです。
川井 なるほど。当時はどんな機械が入ってたんですか?
倉貫 それはちょっと忘れてしまったんですけど、当時はレーザーディスクか何かに教育コンテンツが入っていまして、機械に入れたらコンテンツが表示されて、今でいうWPTという画面上で勉強ができるというものだったんですけども、そのOSが実はMSXで作られていたんです。いじくっているうちにそれが判明して、いろいろ遊べそうだなと思いながらやってましたね(笑)
川井 それはなかなかすごい経験ですね。ちなみに生まれも高知なんですか?
倉貫 いえ、生まれは京都ですね。
川井 あ、京都なんですね。何でまた高知に行かれたんですか?
倉貫 うちの親の教育方針なんですけども、早めに自立をさせるというのがあるんですよ。寮生活に入ると洗濯からすべて自分でやらなければいけませんので。私も弟もそうでしたね。
川井 なるほど。ちなみに京都のどのあたりなんですか?
倉貫 生まれたのは京都の市内なんですけども、小さい頃住んでたのは向日市という京都市の隣の市ですね。京都と長岡京の間です。
川井 なるほど。私京都が好きでしょっちゅう行ってるんですよ。長岡京も行きましたよ。
倉貫 あ、そうなんですね。竹藪がいっぱいですよね(笑)
川井 そうですよね(笑)高校の時も部活というよりもコンピューターをやられてたんですか?
倉貫 そうです。高校時代は学校の中の大学進学コースというものを受けていて、その傍らコンピューターで半分遊びをしているという感じでしたね。
川井 なるほど。この頃ってもう技術やプログラミングを仕事にしようっていう気持ちはあったんですか?
倉貫 ありましたね。小学校ぐらいの時にファミコンゲームやっていて、その当時ゲームプログラマーになりたかったんです。
川井 なるほど。じゃあ結構子供の頃からこれをやろうというのがあったんですね。
倉貫 そうですね。仕事というか、将来ゲームプログラマーになれたらいいなというのはありましたね。子供心に雑誌に載ってる募集要項とか見て、こういうところに行けばこういう仕事に就けるのかっていうのを調べたりとかしてやってましたね。
川井 すごいですね。でも高校の頃からゲームではなくなってきてますよね?
倉貫 そうですね。高校の時は寮生活だったので全然できずにいました。
川井 その頃は職業プログラマーということを意識されてたんですか?
倉貫 そうですね。プログラマーはもうずっと面白くてやっていたので、プログラマーの仕事には就きたいなと思っていました。
川井 なるほど。
倉貫 それがあって大学もコンピューターが出来る学校と学部ということで、情報工学科というところを選びました。
川井 ちなみにどちらの大学なんですか?
倉貫 地元に戻って立命館大学に行きました。実は角谷さんと一緒なんです。しかも角谷さんとは一年違いなんですよ。彼は法学部だったんですけどもね。
川井 そうですよね。角谷さんは文系プログラマーですもんね。
倉貫 私はもうどっぷり大学でコンピューターで勉強できるっていうので選びましたね。私も高校時代は文系の方が成績はよかったんですよ。
川井 へ~!実際勉強なんかできました?
倉貫 まあ普通ぐらいですね。大学時代は、一年目は理系でも関係なくいろんな勉強をしなきゃいけないじゃないですか。英語とかフランス語とか教養系のものですね。あれはすごく苦手でした。もともと自分が興味ないことには力を発揮できないタイプで、好きなことは頑張れるんだけど、好きじゃないことは全然できないっていう人間なので、大学1年のときは危うく留年しかかりました。
川井 そうなんですね(笑)
倉貫 1年の年末ぐらいに単位を調べてみたら、このままではどう考えても4年で卒業できないっていうことがわかり、すごい冷や汗をかいた覚えがありますね(笑)
川井 へ~(笑)
倉貫 それでこれはまずいということで心を入れ替えたんです。大学1年のときは京都の衣笠という金閣寺の近くのキャンパスで、その場所ということもあり遊び呆けていたんですけど、うちの大学が滋賀に新しいキャンパスを新設したということで、大学2年から滋賀県に行かないといけなくなってしまったんです。ちょっと騙された思いもあったんですけど(笑)滋賀のキャンパスはきれいだったんですけど、周りに何もなくて、田舎の中で勉強だけしなきゃいけない環境だったんです。さらに、2年目ぐらいからコンピューターの勉強がいろいろ増えてきたので、なんとか4年で卒業できましたね。
川井 なるほどなるほど。結構昔からコンピューターをやっていると、学校でやることって基礎的なので、役に立ったという方と役に立たなかったという方とで分かれますけど、どうだったんですかね?
倉貫 そうですね、コンピューター系の授業は、結構面白く聞いていましたね。
川井 なるほど。どんな研究をされたんですか?
倉貫 大学3年で研究室を決めるんですけど、一番人気がなかった研究室を選んだんです。そこの研究室の教授は、卒業論文については動くプログラムを1つ作ってしまえば、論文の中身はとやかく言わないっていう先生で、すごくプログラミング能力を問われる研究室だったので人気がなかったんです。私は、「あ、ここだ!もう、これしかない」と思って入りましたね。研究テーマも割と自由に決めさせてもらいましたね。私の大学4年生当時はJavaとかはまだほとんどでていなくて、C言語だったんですけど、普通だったらプログラミングの言語を打ち込まないといけないものを、今でいうドラッグ&ドロップして部品を組み立てていくとプログラムが動くという仕組みのアプリケーションを作ったんです。MDA(Model Driven Archtecture)の走りっぽい感じですね。
川井 なるほど。
倉貫 まあ、研究というか毎日プログラミングしていただけなんですけどね(笑)
川井 やっぱり好きなんですよね。
倉貫 そうですね。好きでしたね。
川井 学校から家に帰ると、自然とパソコンに向かっちゃうみたいな感じですか。
倉貫 4年のときは、もう家に帰らなかったですね。
川井 それ以外には何かやっていることはなかったんですか?
倉貫 大学でコンピューターの授業を受けて、プログラミングして、あと、バイトも1年目は寿司屋でやっていたんですけど、2年目くらいからはコンピューター関係のバイトがしたいなって思って、学部の先輩に紹介してもらったところでいろいろやりましたね。最初は、VisualBasicをバージョンアップするだけの仕事とかやっていました。当時はまだWindowsがブレイクする前で、MS-DOSの時代だったので、Basicを移植するっぽい仕事だったりとか、MS-DOS上で業務システムっぽい会計のシステムを作ったりとかしていたんですけど、この時に初めてプログラムを書いてお金をもらう経験をしました。
川井 京都のベンチャーブームの前くらいですかね。
倉貫 そうですね。少し前だと思います。岐阜とか名古屋の仕事とかが入って、学生ながらに出張とかしていた記憶があります。
川井 (笑)
倉貫 研究室に入った頃からは、大阪のベンチャーを立ち上げている若者たちを紹介してもらって、学生社長さんみたいな方とか、同年代でプログラムがすごく好きな人たちと一緒にやったりとかしてすごく刺激になりましたね。
川井 この頃はもうWeb系だったんですか?
倉貫 いえ、その頃はWindowsのパッケージアプリケーションですね。今もバージョンアップされて発売されている非常に有名なアプリなんですけど、その一部分を下請けで作ってましたね。
川井 Webとの出会いっていうのは、どれくらいなんですか?
倉貫 Webは大学院に入ってからぐらいですね。95年くらいからインターネットを知って、ホームページをつくろうみたいな感じで勉強はしていたんですけど、自分でWebアプリケーションとかはしてなかったですね。意識してやりだしたのが、大学院に入ってからですね。ベンチャーの仕事も終わって、大学院の友人とゲームを作ろうということになったんです。私はゲームからは離れていて、ちょっと遊ぶくらいだったんですけど、友人の方がゲーム好きで、私がプログラムの設計をして一緒にゲームを作ったんです。当時98年くらいですかね、作ったのはいいんですけど、自分たちで遊ぶだけだと面白くないので、インターネットで公開しようと思い、そのために本格的なWebサイトを作り始めたんです。その辺がWebにはいっていったきっかけですね。
川井 Webとの出会いは衝撃的だったんですか?
倉貫 インターネットの仕組みは、コンピューター関係の学部の学生だったので当然知っていたんですけど、インターネットを通じて、我々の作ったものを公開すると、日本のどこからでも世界の裏側からでもアクセスしてくれて、どんどんダウンロードのカウントも増えていって、掲示板とか置いたら、そこからフィードバックも得られていっていうのは強烈でしたね。たかだか琵琶湖みたいな田舎で作ったプログラムが日本のあちこちからアクセスされているわけですからね。
川井 広く発信できるっていうこととインタラクティブ性っていうことですかね。
倉貫 そうですね。今もものを作ることは楽しいんですけど、作ったものの反応をダイレクトに受け取れるっていうのは、すごく楽しかったですね。
川井 そこなんでしょうね。エンジニアでもお客さんからダイレクトに反応が得られることに喜びを見出す人が多いですよね。
倉貫 単にものが作れて楽しいというのではなくて、作ったものを誰かが見て驚いてくれるとか、喜んでくれるっていうのが楽しいですね。
川井 なるほど。これはネットがないとなかなかできないことですよね。
倉貫 できないですね。当時もゲームを作ったとしてもインターネットがなかったら長続きもしないというか面白みもなかったと思います。
川井 なるほど。
倉貫 我々は、そのゲームを作ったときのコンセプトからすでにインターネット頼りにしようと考えていて、割とWeb2.0を先駆けてやっていたところがあったんです。いろいろ試してみたんですけど、我々にゲームのシナリオを創る才能なんてないっていうのがすでに分かっていたので、我々はゲームを作るプラットフォームだけ提供しようと思ったんです。簡易言語みたいな感じで、卒業論文で作ったようなライブラリとかを提供すれば、インターネットの世界にはきっとたくさんの才能のある人たちがいて素晴らしいゲームを作ってくれるだろうと思っていたんです。そういうこともあって、いろんな人がダウンロードしてくれて、それでゲームを作って、またそれをいろんな人がダウンロードしてって仕組みができたんだと思います。最終的にはASCIIさんからも注目していただいて、それで1冊、本を出すこともできました。
川井 それはすごいですね。

TISに入社して
川井 就職は、新卒でTISさんですか?
倉貫 そうですね。
川井 どんな経緯で選んだんですか?
倉貫 大学のコンピュータの勉強をしているうちにオブジェクト指向に出会ったんです。それまではプログラムを作ることだけが楽しみでやってきたんですけど、オブジェクト指向って設計の考え方なので、単にプログラムだけじゃないところに目を開かせてくれて、この言葉に出会った瞬間に「俺はもうこれを一生の仕事にするぞ」くらいのインパクトを受けたりとか、ベンチャーでの仕事とかゲームづくりとかもオブジェクト指向を身につけようとかいうところもあってやってきていたんです。日本でオブジェクト指向で有名なベンダーさんを探したら、オージス総研か東洋情報システム(現TIS)ぐらいしかなかったんです。それで縁があって、東洋情報システムに拾ってもらったんです。
川井 そうだったんですね。
倉貫 実はゲームの方も当時、何十万ダウンロードっていっていたので、ビジネスとしてもいけるというのもあったんですけど、当時の私の浅はかな考えでは、大企業って新卒じゃないと入れないものだと思っていて、ベンチャーの経験はしたので、大企業を経験してそれから独立するかどこかいけばいいかなって思って入ったんですよ。
川井 結構、ある話ですね。東洋情報システムは上位のSIerでしたしね。でもかなり金融系っていうイメージもありましたけど、そのあたりはあまり意識はしなかったんですか?
倉貫 そうですね。当時は業務では見ていなくて、とにかくオブジェクト指向っていう枠で考えていましたね。東洋情報システムでオブジェクト指向の本も出していましたし、この会社に入ったら結構面白いことができるって思っていました。自分がその部署に配属されるってことを疑っていなかったのもあるんですけどね(笑)
川井 なるほど(笑)
倉貫 もうそのつもりでしたね。金融はさらさらやる気がなかったですね(笑)
川井 実際に入ってみて最初にした仕事はどんな感じだったんですか?
倉貫 実は、オブジェクト指向を専門でやっていた部署が、私が入社した年にちょうど潰れてなくなっちゃったんです。
川井 ありゃりゃ。
倉貫 その部にいたエキスパートの方々がいろんな部に散るんですけども、私は最終面接の時点で専務から「お前の席はもう決まっている」みたいなことを言われていて、入った部署がもともとオブジェクト指向をやっていた部署のエキスパートが配属されていた部にOJTで入れてもらったんです。最初は先物取引のお客さんのシステムを担当してやっていましたね。
川井 なるほど。担当業界とかって結構変わるものなんですか?
倉貫 うちの場合は、結構業種のエキスパートになる方が多いので、変わることは少ないんじゃないですかね。私の場合は、業種側じゃなくて技術のエキスパートでいっていたので、ある程度、どの業種でもいけたんだと思います。
川井 TISさんクラスのSIerになると、上流に特化していて、社員の方がソースコードを書くというイメージがないんですけど、実際はいかがなんですか?
倉貫 私が入ったのが99年なんですけど、ちょうどその年に方針展開というか上流志向を打ち出して、オブジェクト推進の部署がなくなって完全に逆風が吹いていましたね。ですけど、たまたま当時は、上司がすごく技術志向の方でプログラミングもかなりできる人だったので、その人のおかげでマネジメントの仕事よりもものづくりの仕事に携われたというのがあったと思います。今でこそアーキテクトって当たり前の言葉なんですけど、当時からアーキテクトっぽい仕事をさせてもらっていましたね。
川井 なるほど。ある意味エリート教育を受けたという感じですかね。
倉貫 そうですね。その人の下に入れたのはすごく幸せでしたね。
川井 当時はどんな技術をやられていたんですか?
倉貫 入社して1年目は、CORBAという分散オブジェクト指向みたいなものをやっていました。まだJavaがそれほど業務で使われていない頃で、言語はC++でした。C++でオブジェクト指向で分散オブジェクトのフレームワークを設計して、今でいう大規模プロジェクトで、私が作ったフレームワークを配って、皆さん、画面作ってくださいみたいな感じです。
川井 オリジナルのフレームワークなんですよね。
倉貫 そうですね。当時はインターネットにオープンソースのフレームワークなんかなくて、C++なんで非常に特化した感じですからね。
川井 なるほど。そういう環境づくりに回られたんですね。
倉貫 そうですね。幸い画面側を作ってすり減らされるみたいな経験はあまりしていないですね。まあ、それでも夜中まで残業して仕事はしてましたけどね(笑)
川井 何年くらいやられていたんですか?
倉貫 このプロジェクトは長くて、2年くらいですかね。
川井 なるほど。
倉貫 私はフレームワークを先に作って渡す方だったんですけど、我々が作ったフレームワークを使って画面を作る人たちは本当に悲惨な状況だったんです。上流で決められたものを何も考えずに製造するみたいな仕事でしたからね。
川井 そういう部分って外部のパートナーが担当していたんじゃないんですか?
倉貫 そうです。我々の作ったフレームワークの上で、パートナーさんに製造をお願いするという形でした。でも、その経験がとても強烈だったんです。私からするとこれまでベンチャーでやってきたみたいに、プログラムをするということはクリエイティブで楽しいことだと信じきって大学院まで行っていたんですけど、就職して最初に見たプロジェクトでは、プログラミングを楽しそうにしてないんですよね。フレームワークを作る側はそれなりに楽しいんですけど、そのフレームワークの上で画面を作る人たちは全然楽しそうじゃないっていうのがすごく衝撃的で、私のしているプログラミングと彼らのしているプログラミングが違うものなのかなとまで思いましたね。
川井 そう見えるかもしれませんね。
倉貫 結局そのプロジェクトは、我々にも余波が来て、いろいろ問い合わせ対応なんかもしながら、徹夜続きで全然寝る間もなくカットオーバーを迎えることになるんですけど、そこにすごくギャップを感じて、若者なりにそのギャップについてカットオーバー後に分析してみたんです。
川井 どんな風に分析したんですか?
倉貫 いろんな人に聞いてみたところ、そのプロジェクトは最初の頃、余裕のあるプロジェクトで、要件定義や上流の頃は毎日17時半には終わって呑みに行っていたって言うんです。それを聞いて、おかしいな、下流のプログラミング行程は余裕なんて全然なかったぞって思ったんですよ。その時に気がついたのは、ウォーターフォールがよくないんじゃないかということだったんです。なんで上流の人は余裕があるのに下流のものづくりの人だけが苦労しているのか、ウォーターフォールっていう業界の仕組みがおかしいじゃないって思いましたね。
川井 なるほど。
倉貫 そのあと、大きなプロジェクトだったので終わったあとに少し時間があって、開発プロセスとかいろいろ勉強していた2年目に、会社が研修に行かせてくれたんですよ。それは、東洋情報システムとして若手で技術志向の人間をピックアップして、半年間継続的に数回オブジェクト指向の研修を受けられるというものだったんですけど、その研修に選抜してもらったんです。その研修は普通にオブジェクト指向について学ぶというものではなくて、それこそオブジェクト指向界の重鎮が来て、毎回好きなことを語るみたいなものだったんです。
川井 そういうセミナーだったんですね。
倉貫 それには強烈な印象を受けて、こういう人たちがいるんだと驚きましたね。そこで当時、オブジェクト界の重鎮である藤野晃延さんやリファクタリングを書かれた方などを紹介されたんですけど、その中に1人だけ若くて元気な人がいて、それが平鍋健児さんだったです。
川井 そういう出会いだったんですね。
倉貫 2000年当時、平鍋さんがXP(eXtreme Programming)を紹介していていたんですけど、ずっと大規模プロジェクトで感じていたギャップとウォーターフォールとが全部つながって、XPが僕のやろうとしていたことの正しい姿ではないかと思って、勉強し始めたのが取り組みのきっかけです。
川井 なるほど。
倉貫 そこでの出会いがなかったら、今、やってないですね。
川井 そういういろいろなターニングポイントがあるんですね。
倉貫 うちの会社に入って、最初にアーキテクトじゃなくて画面を作らされていたりしたらもう辞めていたかもしれないし、大規模プロジェクトに入って経験しなければ、XPのありがたみも分らなかったかもしれないし、分らないものですね。
川井 確かにそうですね。

XPを社内で実践
川井 その後は、どんな風に過ごされてきたんですか?
倉貫 まず、XPに出会っていろいろ勉強して、コミュニティにも参加するようになりました。XPユーザー会とかにも最初はただの観客として参加していたんですけど、当時、コミュニティの中心の人たちって結構有名どころで目映い人たちばかりで、なかなか話しかけづらかったんです。でもどうしてもそういう人たちと話がしたくて、どうすればいいかなって模索していて、考えたのが自分で実践して事例とか作ったら発表とかできるんじゃないかってことだったんです。
川井 なるほど。
倉貫 発表したらコミュニティのスタッフの人たちとかとも気おくれなく話ができるんじゃないかなと思ったんですよね。
川井 確かにそれは一番自然で近道ですよね。
倉貫 それで、いろいろ部内で勉強会とかもしてみたんですけど、所詮2年目とか3年目とかですから、実際にXPを採用できるわけでもないじゃないですか。なので、任せてもらった新人に対する教育の一環で、XPを教えて洗脳しちゃったりとかしていたんですけど、そうしているうちにあるプロジェクトのサブリーダーを任せてもらえることになったんです。その時にはじめで、自分でXPを採用してやるというジャッジをしたんです。
川井 なるほど、実践をできるようにしたんですね。着々と進んでますね。
倉貫 そうですね。大きな会社なので、偉くならないと好きなことができないんですよ。
川井 昇進、昇格というのは1つの手段ですよね。なんか政治力っておっしゃっていたのが分かる気がします。
倉貫 その辺は大企業ならではなので、いろいろ勉強させてもらっています(笑)
川井 なるほど。
倉貫 昇進するためには、嫌な仕事でも結果を出していけば評価につながりますからね。
川井 例えばどんな仕事をやったんですか?
倉貫 トラブルプロジェクトの対応とかは結構ありましたね。
川井 火消しに入っていたんですね。普通はあまりやりたがりませんもんね。
倉貫 ただ、火消しに入ると、もうトラブっているので、そこそこ技術ができる奴がきたっていうことで、まずはそいつの言うことを聴いた方がいいんじゃないのかっていう雰囲気がすでにあるので、そこでXPを教えるわけですよ。今、このプロジェクトにはXPが必要ですとかいうと、その人たちは藁をもすがる状態なので、XPを採用してくれるとかっていう感じで徐々にやってきましたね。
川井 なるほど。
倉貫 そのあと、3年目くらいだったか、自分がプロジェクトリーダーになってXPを全面的に採用してプロジェクトを半年くらいでやり遂げて、そこそこ成功と言われるプロジェクトだったので、やっとコミュニティで発表できる事例ができたと思って、オブジェクト倶楽部という平鍋さんがやっているイベントにオーディエンスで参加して、残って、勇気を出して平鍋さんに相談しにいったんです。
川井 いきましたね。
倉貫 そこで、平鍋さんにXPのこういう事例を世の中に出していきたいんですけどという相談をしたところ、出版社を紹介してもらって、XPの記事を書かせてもらうことができたんです。
川井 これはどこで書かれたんですか?
倉貫 今はなくなっちゃっているんですけど、技術評論社の「JAVA PRESS」だったと思います。6ページくらいの小さな記事ですけど、それを会社員でありながら書かせてもらえて、それが自分でも自信につながりましたね。段々コミュニティでも話せるようになったり、記事のことでいろいろな人に声をかけてもらったりしているうちに、オーディエンスから主催側になっていきました。
川井 いい流れですね。
倉貫 そういう活動を外でやっていると、会社の中でも「なんか変な奴がいるぞ」という風に目をつけられるようになって、その雑誌の記事を書いた数ヶ月後に、月に1回やっている役員と部長が集まる勉強会があるんですけど、そこでXPを紹介しないかっていう話が出て、当時、平社員で最低の階級の奴が役員と部長の前で勉強会をやって、それが結構インパクトがあったみたいで、割と社内でもXPとかオブジェクト指向をやっている倉貫がいるぞっていう認知をしてもられるようになったんです。それはそれでまた評価につながっていったんです。
川井 いやあ、本当に着々といっていますね。
倉貫 運も良かったんですよ。
川井 この頃はJavaですよね。
倉貫 そうですね、Javaでやっていましたね。

Rubyとの出会いは?
川井 Rubyとの出会いはいつ頃だったんですか?
倉貫 Ruby自体は、昔からプロジェクト管理ツールを作るときにいろいろ探して見つけてはいたんですけど、現場ではなかなか採用できるものではなかったし、社内でそこまでの権力はまだなかったですね。なので、Rubyというものがあるという認識だけでしたね。
川井 なるほど。
倉貫 今、私がいる「基盤技術センター」は4年前に新設されたんですけど、それまでTISには開発上のフレームワークを作ったり、開発の標準を決めるみたいな生産技術っていう部署はあったんですけど、割と尖った技術を扱って社内に広めるという技術専門の部署がなかったので、じゃあ作ろうという話になったときに、立ち上げメンバーとして呼んでいただいたんです。
川井 研究開発的な組織ということですか?
倉貫 研究開発とまでいかないんですけど、新しいITの技術を取り入れて、現場の支援をしながら実績をつくって広めていきましょうというのがミッションでした。当時はそこには割と重鎮というか、10数歳も上の人ばかりが集まっている中に若者1人入れてもらえて、そこはもともとそういうミッションの部署だったので、それこそXPだとかJavaの先進的技術だとかを調査しつつ、現場の仕事をするということをしていました。
川井 なるほど。
倉貫 それから対外的にも動きやすくなって、最初の記事は現場にいるときに書いたんですけど、それ以降の記事は、基盤技術センターとしてTISの技術力をアピールすることも踏まえて書いたりしていますね。いろいろなコミュニティ活動にも参加させてもらって、XPユーザー会の会長にさせてもらったのもその頃ですね。
川井 そういう状況だったんですね。中でも外でも順調ですね。
倉貫 エンジニアってストイックな人が多いので、仕事帰りで頑張るときには会社のことは一旦忘れるとか、会社には外の活動は持ち込まないって人が多いですけど、私は双方を利用して、要領よくやる主義ですね。
川井 なるほど、結構ポイントですよね。その後、どういった技術に取り組んだんですか?
倉貫 最近は、XPじゃなくてアジャイルっていうキーワードがありますが、社内ではアジャイルのエバンジェリストということで、アジャイルの技術に取り組んでいます。特に最初の頃に注力したのはTDD(Test-Driven Development:テスト駆動開発)ですね。Javaでテスト駆動開発っていうのをアジャイルの一環で取り組んで、いくつかのプロジェクトで試すうちにテスト駆動開発を本格化するというのがミッションでした。
川井 なるほど。
倉貫 あとは現場のプロジェクトで使えるということで、CVS(Concurrent Versions System)から移行したSubversionであるとか、Javaでいうと日本だとSeaser2が有名なんですが、アメリカで出たSpringに取り組んでいました。Springは私がというより、私のメンバーが担当していて、そのメンバーがSpringの本を出したりしていましたね。
川井 この頃はメンバーをどれくらいもっていたんですか?
倉貫 異動したくらいからちょっとずつ偉くなってきて、部下を持つようになってきたんですけど、私は自分自身で技術もやるんですが、マネジメントも上手くできるということが分かってきて、最初は10人くらい見ていました。人数が増えればそれだけいろんなことができて、それを社内で試して実績をあげて、本にしてといういいサイクルができていましたね。
川井 今回のSKIPは最近の取り組みなんですか?それとも大分前からのものなんですか?
倉貫 ちょうどそこから繋がるんですけど、ちょうど3年前の2005年にとある事件があったというか、当時、TISの全社あげての巨大プロジェクトがあって、いろんなところから人を集めていくんですけど、とりわけ私の部署はコストセンターなんで、より多く人を出さなければいけなかったんですよ。メンバーも即戦力になる人が多くて、倉貫のチームを解体したいと言われたんです。
川井 そんなことがあったんですか。
倉貫 それで、2005年の8月くらいに一生懸命育てたチームを解散して一家離散させられたんです。まあ、会社人ってこういうものかって感じなんですけどね。それで私の元には2年目のメンバーが1人だけ残ったんですが、2人チームなのでマネジメントという感じでもなくて、もともとのミッションに立ち帰って、課題となっていたナレッジマネジメントに取り組もうということになったんです。
川井 なるほど。
倉貫 それまでも何度か、社内のWebサイトとかを作っていたんですけど、上手くいかなくて、せっかく2人になったんだし、それまでとは違うやり方でナレッジマネジメントをやっていこうっていうことにしたんです。当時、解散させられて私も本当にショックを受けていて、もう転職もやむなしとまで思っていたので、いろんな会社や海外などの情報に触れていたんですけど、WEB2.0が流行り始めていて、アメリカのGoogleとか日本だと、はてなやmixiとか勢いのあるWebの会社で仕事したいなっていう思いもあったんですけど、Web2.0っていうとCGMとかブログとかが使われていて、社内にマネジメントにブログとかを取り入れたらいいんじゃないかって思ったんです。もう解散して2人しかいなくなっていて、TIS全体の情報発信をするのは無理たったんですね。なので、我々はプラットフォームだけを提供して、コンテンツはみんなに入れてもらえばいいんじゃないかって思ったんです。
川井 なるほど。大学の時のゲームと一緒の発想ですね。
倉貫 そうです。その頃まったく同じ考えでプラットフォームだけ提供しようと思って、プラットフォームは何がいいかなっていうので、SNSを作ろうってことになったんです。それまでは10人くらいのメンバーを持ってプログラミングを一切せずに金計算のすごく得意な人間になっていた時期もあったんですけど、もうマネジメントしなくていいんで、初心に帰ってプログラミングをやろうかなと思ったんです。
川井 そんな状況だったんですね。
倉貫 それで、SNSを作るのにJavaでやると、私よりもメンバーの方がJavaは得意になっていて、それに追いついて追い越すのは30歳すぎた人間にとってはきついなって思ったんです(笑)なので、誰もやっていない領域でやったら若者にも負けないんじゃないかと思って目をつけたのがRubyだったんです。また当時、Ruby on Railsがアメリカでブレイクしていて、まだVer1.0しか出ていない時期で、これならまだ誰もやっていないので、偉そうにできるんじゃないかなと思って、Javaのマネージャーから角谷さんの本みたいにRubyのプログラマーに変身して、2年目の若者と2人で英語と格闘しながらRubyでSNSを作っていったんです。
川井 そういう背景があったんですね。
倉貫 そうなんです。
川井 これって、PythonじゃなくてRubyだったのは訳があったんですか?
倉貫 そうですね。Ruby on Railsが衝撃的だったんですよね。Ruby on Railsってフレームワークがしっかりしているんですぐ動くんですよね。それはプログラムからしばらく離れていた人間にとってはとても楽しくて、これだなと思ったのが大きいですね。
川井 なるほど。ちなみにRubyについては今後どうなると見ていますか? Ruby会議ではJavaの初期の頃よりも盛り上がっているという風に言われていましたけど。
倉貫 RubyはJavaと同じポジションをとると上手くいかないと思っていて、そこについては結構悲観的なんですよ。私はJavaのマネージャーもRubyのマネージャーも両方知っているんですけど、Javaと同じやり方で、XPでもなくウォーターフォール的な開発の仕方をして実装移行はオフショアにするかパートナーに出すかしても、出した部分だけをRubyに変えても生産性は上がらないんですよ。なので、今までの仕事のやり方を変えずに言語だけ変えても生産性が上がらないので、Rubyに対してのネガティブな意見が出てしまうだけだと思うんです。Rubyは柔軟な言語でJavaほどしっかりしていないので、そんなところに無理にRubyを使う必要がないんじゃないかなって思いますね。
川井 なるほど。どういう部分に使っていくといいんでしょうか。
倉貫 逆にアジャイルだとか、ちょっとずつ仮説を立てて、設計をして実装して、お客さんと確認しながらフィードバックを受けて設計し直してというものにはRubyはすごくマッチしていると思うんです。なので、アジャイルなプロジェクトでないとRubyの真価は発揮できないんじゃないかと思うんです。私がRubyに貢献できるとするとアジャイルを広めて、ビジネスモデルを変えていくという形になるんじゃないかなと思いますね。
川井 なるほど。これは面白いですね。セミナーでじっくりお聞きしたいですね(笑)
倉貫 是非(笑)

今後の方向性は?
川井 これからチャレンジしたいことってありますか?
倉貫 Webエンジニア武勇伝で申し訳ないんですが、私、将来なりたいのが料理屋のオーナーシェフみたいな仕事をしたいんです。というのはプログラミングと経営の両方ができるようになりたいんです。オーナーシェフって料理をして、料理長なんだけど自分の店を経営してるじゃないですか。別に巨大レストランチェーンの経営者じゃなくていいんですけど、経営とプログラムが両方できるようになりたいですね。なので、今は会社で新しい事業を政治力を駆使してやっていますね。
川井 新規事業は勉強になりますよね。ちなみにそういう経営とプログラミングを両方できる経営者って誰が一番イメージに近いですか?
倉貫 お会いしていないですけど、はてなの近藤さんとかですかね。自分でサービスを作って、かつ社長もされていますよね。
川井 ウノウの山田さんとかもそうですよね。でも日本じゃ少ないですよね。もともとはほりえもんだったんですけどね(笑)
倉貫 そうですね(笑)

若手エンジニアへ向けてアドバイスをお願いします
川井 最後に若手のエンジニアにアドバイスをいただけませんでしょうか。
倉貫 そうですね。私も若い頃はそうだったんですけど、とかく若手のエンジニアって自分の技術とかやりたいことに対しては、真摯というかストイックなんですけど、それを実際に導入するときに、例えば上司とか、お客さんとかコミュニティに提案するときに、自分はこんなことをやりたんだって熱く語れる人間はたくさんいるんですけど、それだけでは難しくて、お客さんとか上司とかに分かる言葉で説明してあげたり、相手がメリットを感じる説明の仕方を技術者はもっと勉強すべきだなって思いますね。別に経営をやるとかマネジメントをやる必要はないんですけど、経営者に分かる言葉にトランスレイトしてあげるとか、マネージャーの視点で良さを語れるようなスキルを身につけるべきだなって思いますね。これってマーケティングだと思うんですよね。マーケティングって相手の気持ちになることが重要ですよね。
川井 確かにすごく重要なポイントだと思います。
倉貫 逆にそういうスキルを身につけていくと、自分のやりたいことがどんどんできるようになってくるんですよ。そこが私が自分のやりたいことをどんどん採用できるようになった要因なんですよ。
川井 ここまではっきり説明いただくといいですね。いつもざっくりとコミュニケーションって言ってしまうんですが、そうじゃなくて自分のやりたいことを実現するための手段とかスキルってことですよね。
倉貫 XPをやりたいってだけだと、上司からすれば、それはお前がやりたいだけだろってことになっちゃうんですけど、上司にとってこういうメリットがあるとかお客さんにとってこういう風にリスクが減りますよとかいう説明ができれば相手も納得しやすいですよね。そのために別の業界のいろんな言葉も知る必要がありますけど、身につけてもらえると、やりたいことができるようになりますよ。
川井 この辺も詳しいテクニックはセミナーでお聞きできそうですね(笑)
倉貫 まあ、そんなテクニックないですけどね(笑)
川井 これは大企業にいたからこそ身についたスキルかもしれませんね。
倉貫 確かにそうですね。
川井 大変、参考になる話をお聞きできました。本日は本当にありがとうございました。
倉貫 こちらこそ、ありがとうございました。

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