インタビュー記事

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第32回 荻野淳也 氏(前編)

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今回は、第20回の「Webエンジニア武勇伝」に登場いただいた日本Rubyの会会長・ツインスパークシニアプログラマ高橋征義 氏のご紹介で、ogijunさんこと、コントロールプラス株式会社の荻野淳也さんにお話をお聞きしました。荻野さんはRubyをはじめ、あらゆるカンファレンスに足を運び、自らの師やコミュニティの繋がりを作られてきました。そんなとっても熱くてとってもクレバーなogijunさんの生きざまに魅せられたインタビューを存分にお楽しみください。熱いインタビューは150分にも及ぶロングインタビューになりました。前編後編に分けてお届けします。取材は、デザイナーズマンションを利用したオフィスをお借りしました。

※取材日は、2008年7月です。所属や役職などは当時のまま掲載しております。

川井: よろしくお願いします。

荻野: こちらこそよろしくお願いします。
川井: まずはパソコンとの出会いを教えていただけますでしょうか。

荻野: パソコンとの出会いは、MZ-700というマシンなんです。私、新潟の出身で田舎の男の子って基本は表で遊ぶじゃないですか。なので、あまりそういうのとは縁がなかったんですけど、小学校5年のときに自転車で転んで骨折したんです。骨を折っているので野球とかできないじゃないですか。その時に退屈なので、まだ持ってなかったのでファミコンでも買ってもらうかって。それで電器屋に行ったら、隣に型落ちになっているMZ-700が売っていて、こっちのパソコンの方がいいなあって思っちゃったんです。それでセットで買うよりも安いし、こっちがいいやってことで、2万円くらいで、たたき売りされていたMZ-700を買ったんです。
川井: 当時2万って格安ですよね。

荻野: 定価は10万円くらいしたんですけど、19,800円で買えました。
川井: それは安い。

荻野: それが自分でパソコンを持った最初なんです。小学校5年生ですから、ちょっと使い方が分からなくて、MZ-700ってクリーンコンピュータって言いまして、最初、立ち上げると普通のマシン語のコンソール画面で出てくるだけで何もできないんですよ。そこからカセットテープでBASICを読み込ませて、BASICインタプリタが起動して、ようやっとパソコンの雑誌に載っているようなことができるんです。
川井: テープローダー付きなんですね。

荻野: はい、カセットテープレコーダーが内蔵されていました。BASICを起動するまで3分くらいかかりましたね。当時のパソコン少年は同じような道をたどるんですけど、ベーマガを買って出ているプログラムを一生懸命打ち込んでいました。
川井: 皆さん同じですね。

荻野: はい(笑) 作ったプログラムもテープに保存しないと消えちゃうんですけど、カセットテープも1つか2つしか買ってもらっていなくて、いろいろ消したりしながらやりくりをしていた思い出がありますね。そんなところからBASICのプログラムを見よう見真似で覚えました。最初は、ベーマガに出ているゲームのプログラムを入力して、無敵モードを作ろうとか他愛もないことをしたり、他の機種のものも載っていたので、それを移植してみようとかそんなことをしながら2年くらいはいじくっていましたね。
川井: なるほど。

荻野: その途中で、今はなき日本ソフトバンクの「Oh!MZ」って雑誌を発見したんです。ベーマガだとBASICだけでいろんな機種のことが載っていたんですけど、このシリーズは機種に特化してより深いことをやるわけですよ。そこにいくとマシン語の16進ダンプがズラーッとチェックサム付きで並んでいて、アセンブラですらないマシン語プログラムが紙面にずらっと書いてあったんです。それを打ち込んで、到底、自分でBASICでは作れないような高度なゲームができるとか、そんなマニアックな雑誌で、それにかなり熱中していました。
川井: 確かにかなりマニアックですね。

荻野: その後、中学校に入って、ぱたっとコンピュータに興味がなくなって、せっかく買って使えるようになったのに使うのをやめちゃったんですよ。
川井: そうなんですか。

荻野: ええ、でも「Oh!MZ」という雑誌だけは読み物として面白くて、ずっと買ってましたね。
川井: そうなんですね。

荻野: 小中高くらいまではコンピュータにどっぷりはまっていたというのではなくて、骨折したときに買ってもらったものを夢中で触っていたというのが原体験だったんですけど、しばらくブランクがあくんですよ。でも、その「Oh!MZ」を買って読んでいたのが結構大きくて、コンピュータの周辺知識はあって、新機種とかも頭に入っていたんでしょうね。
川井: なるほど。

荻野: SHARPは当時、MZのシリーズとX1との両方を別事業部から出していて、「Oh!MZ」はその両方を扱っていたんですけど、タイトルが入れかわって、「Oh!X」っていう雑誌に変わっちゃうんですよ。
川井: そうなんですか。

荻野: 「Oh!X」になってからも読んでいたんですけど、高校生くらいの時は、先輩達にコンピュータ好きな人がいて、僕はMZ-700しか持っていなかったので、いろいろ使わせてもらっていたんです。そしてコンピュータと次に本格的に触れるのは、1992年の高校3年生の時なんです。ASCIIから季刊のムックで「NETWORKER」というパソコン通信の情報誌が出ていたんです。パソコン通信は当時から知っていて、例えば後藤久美子さんが主演した「空と海をこえて」っていう日立製作所がスポンサーのドラマがあったりして、面白そうだなって思っていたんです。このドラマは単発でDVDも出てないのであまり知っている人はいないと思うんですけど、Wikipediaにすごい充実した情報があります。まあそんな感じでパソコン通信というのは楽しそうだなと思っていて。
川井: そうなんですね(笑)

荻野: それでその「NETWORKER」という雑誌を本屋で偶然見つけてみていたら、パソコン通信をやっている有名人っていうインタビューコーナーに谷山浩子さんが出ていたんですよ。実は私は小学校時代から谷山浩子さんのすごいファンで、本当に好きだったんで、中高と頑張ってアルバムも全部集めたくらいなんです。その谷山浩子さんがパソコン好きでパソコン通信をやっているというのも風の噂に知っていたんですが、「NETWORKER」には他のメディアで出たことのないくらいの大きな写真とインタビュー記事が出ていてびっくりしたんです。
川井: なるほど。

荻野: それで、その記事を最後まで立ち読みしていたら、記者の方が、「今回の取材のお礼をメールで送ったらすぐに丁寧なお返事をいただけて・・・」って書いていて、「え! パソコン通信をやっていると返事もらえるの?」って思っちゃったんですよ(笑)
川井: なるほど(大爆笑)

荻野: これはもう今すぐに始めなくちゃいけないなって(笑)
川井: 谷山浩子さんにメールを送りたい一心だったんですね。

荻野: そうなんです。アドレスも知らないのに(笑)、俺はもうあのパソコン通信をやらねばならないって思ったんです。それでパソコン通信に詳しかった高校の先輩に電話をして、彼の使っていないPC-8801とモデムを1万円で譲り受け、友達の家に転がっていた200ラインのモニタをもらってきて、玄関から長く電話線を引きこんでつなげて、キャッチフォンで落ちるとかいうのをやりながら、即座に買った「NETWORKER」を見て、地元に近いBBS局を探しました。
川井: すごいですね。

荻野: でも新潟県の糸魚川市という田舎だったんで、BBS局が近くになくて、遠距離電話を掛けなければならない状況でした。1ヶ月の電話代がいきなり3万円とかになって親に怒られましたね。それが復帰第一弾でしたね。高校3年のときで8月の夏休みに東京の先輩の家に行ってPC-8801をもらってきたんで、9月くらいかなと思います。
川井: cho45さんのインタビューのときに、大抵の人のパソコンを始める動機はゲームかエロに違いないって言っていたんですけど、ちょっと違う感じですね(笑)

荻野: この武勇伝シリーズを見ていても思うんですけど、サブカルチャーって大事だと思いますね。高橋征義さんでいうところの新井素子さんとか、角谷信太郎さんでいうところの映画とか、cho45とかsecondlifeでいうところの「ひだまりスケッチ」だとか。
川井: そういうのありますよね。

荻野: パソコン通信っていうのは本当に素晴らしくて、よく富山県のネット局につないでいたんですけど、他県からわざわざくる高校生がいるっていうことで結構かわいがってもらえたんです。いくらかの知識は持っていましたが、パソコン通信は初めてだったのでいろいろつまづいたりするんですよ。それにかなり型落ちのマシンを高く売り付けられていたらしくそういう意味でも苦労していたんですけど、パソコン通信に集う人たちがいろいろと懇切丁寧に教えてくれるんですよ。
川井: なるほど。

荻野: それがすごいなあって思いました。今も昔もなんですけど、やっぱりコミュニティって大事なんですよね。
川井: そうですよね。

荻野: それから完璧にはまってしまって、その時からゲームはほとんどせずにコンピュータを触っている時間のほとんどをパソコン通信に費やすようになりましたね。田舎に住んでて外を遊びまわっていた人間なので、顕著に分かるんですけど、高校3年の8月に2.0あった視力が半年くらいで0.7にまで落ちちゃったんですよ。今は0.03とか0.01とかになっちゃっているんですけどね。
川井: そんなにですか。

荻野: それぐらい急激にやりすぎちゃったんですよ。
川井: はまる方なんですね?

荻野: そうですね。凝り性の気はあって、谷山浩子さんにも急激にはまったし、パソコン通信にも急激にはまったんですけど、興味のないことには一切興味がないという感じですね。
川井: なるほど。その後は、どういう風にパソコンとは絡んでいくんですか?

荻野: 昔ちょっとやっていたので、勘を取り戻すにはそんなに時間がかからなくて、少しずつプログラムを思い出して、勉強しながらやっていきましたね。それで次にアクションを起こすのが93年の3月なんですけど、大学進学が決まって、東京に出てくることになって、引っ越しのときに家財道具を揃えるために親からもらったお金で冷蔵庫とかではなくて、X68000っていうパソコンを大枚はたいて買ったんです。
川井: (笑)

荻野: 「Oh!X」もずっと読んでいて、これが夢だったんですよ。当時は98が全盛期ですけど、X68000を使っている人たちっていうのは、ある意味の選民意識というかこだわりがある人たちだっていうのが自負としてあったんですよ。
川井: 超王道ですよね。

荻野: 特にCGのレンダリングとかをして喜んでいたりしましたね。
川井: なるほど。

荻野: あと、高校の時に旺文社と富士通が共同でコンテストをやっていたんですよね。高校生にFMTOWNSを無料で貸し出してプログラムを作って応募させるっていうものなんですけど、簡単なゲームを作って応募したら奨励賞みたいなものを受賞したんです。他の方みたいにベーマガに投稿とかはしていなかったので、ずっと享受している側にいて、そういうものを出す方に回るとは思っていなかったんですけど、割と褒められるんだなって思って、1つの成功体験になりましたね。
川井: そういうことがあったんですね。

荻野: なんでFMTOWNSに目をつけたのかっていうと、それも谷山浩子さんが、「Oh!FMTOWNS」に「気絶寸前なのらー」っていうタイトルのエッセイを連載していたんです。それは彼女がFM77っていうのを使っていて、普通にいち読者としていち投稿したのを編集者が見つけて連載企画になったらしいんですけど、それを知っていて、なんとかこの雑誌を買いたかったんですけど、田舎の高校生でお金もないじゃないですか。「Oh!X」と両方買うのは結構大変で、それで、コンテストに応募するからと言って学校で買ってもらおうと思ったんです。
川井: 買ってもらえたんですか?

荻野: はい、1年間購読しました。ちゃんと賞にも入ったので、なんとか面目も保てました(笑)
川井: なるほど。

荻野: 谷山浩子さんのエッセイはいい連載だったんですけど、「Oh!FMTOWNS」自体が休刊になって94年に終わってしまうんですよね。「Oh!X」もその少し前に休刊になっていましたね。あの頃はパソコンというかマイコン文化戦国時代というかそういったものが、下火になっていった感じでしたからね。

川井: 大学はそういう方面にいかれたんですか?

荻野: 大学は東京都立大学の理学部数学科なんですよ。なので直接は関係ない学部でしたね。
川井: 数学科なんですか。数学を選ばれたのってどういう理由なんですか?

荻野: もう単純に研究者になりたかったんですよ。
川井: 数学者ということですか?

荻野: はい。当時は研究者になりたいとか、他にも絵描きになりたいとか変なことを考えていたんですけど、美大とかは早々に諦めたんです。数学者になりたいって思ったのは、SEGっていう予備校の先生だった小島寛之さんっていう最近だと「数学でつまづくのはなぜか」っていう本が話題になってるたくさん本を出されてる方なんですが、その方の「数学迷宮」っていう著書を「大学への数学」という雑誌の記事を見て知って、それを読んで感銘を受けたのがきっかけでした。今は絶版ですけど、これはカントールの集合論のよい入門書なんです。
川井: 「大学への数学」、懐かしいですね。学コンとか応募してました?

荻野: やってましたね。何回か載りましたよ。添削してくれた人に大学で会ったりもしました。
川井: それはすごいですね! 私は一度も載りませんでした・・・。実は私も数学者を目指していた時期があったんですよ。

荻野: そうなんですか。じゃあ、数学科なんですか?
川井: いえ、それが現役のときは数学科を受けていたんですが、浪人して結局、国文学科に行っているんですよ。

荻野: その転向はいいんじゃないですか。この業界って文転を狙っていたのにできなかった人がいっぱいいるはずですからね。
川井: いえいえ。私のは本当に落ちこぼれ文転ですから(笑)

荻野: それでいろいろな科学が好きだったんですけど、数学というのはなんと美しいものなんだと思っていて、絵描きに憧れたこともあったと言いましたが、数学をやっているだけでも十分に芸術的だなと思いましたね。
川井: それは確かにそうかもしれません。でも残念なのは、数学を楽しく教えられる先生って少ないですよね。これが解消されると日本のエンジニアとかプログラマってもっと増えるんじゃないかと思っているんですよ。何が面白さとつまらなさの差になるんでしょうね。

荻野: それは本当に感じますね。もったいないなあと思いますね。僕なんかは本当にラッキーだったと思います。僕は高校3年生の夏に東京の先輩のところにきて、SEGに通っていたんですよ。SEGというのはScientific Educational Groupの略なんですけど、「大学への数学」を読んでいるような高校生には有名で、理科系のエリート予備校みたいな感じだったんです。そこで小島先生やいろいろな先生に出会ったんです。代表の古川昭夫先生にも別の数学コンテストがきっかけでお会いしたんですけど、古川先生が都立大の数学教室出身だったんです。
川井: なるほど、そういう出会いだったんですね。

荻野: それで、都立大の数学科が名門というかある程度名が通っているところだっていうのは知っていて、もう1つ、地元の高校生の中で数学に特別に興味を示している人を集めて、半分個人的に数学を教えていた上越教育大学の先生がいて、今は神奈川大学にいらっしゃるんですけど、この方も都立大学の出身だったんです。やっぱり東京に出てきたかったんで、確実に入れそうっていうのと国公立じゃないと学費が出せないっていうのもあったんで、都立大を選びました。
川井: そうでしたか。

荻野: 小島さんは、当時は数学者の卵だったと思うんですけど、本人は挫折したと書いてましたが、今は数学からは遠のかれて、帝京大学の経済学の先生をされていますが、この本で数学に出会わせてくれたことには今でも感謝しているんです。
川井: じゃあ、大学の時は数学の研究をされていたんですか?

荻野: やっぱりすぐに研究はできないので基礎知識をつけるために1年くらいはすごく勉強しました(笑)
川井: 1年くらいですか(笑)

荻野: 何が起こったかっていうと、やっぱりパソコン通信の魅力っていうのが大きくて、田舎にいたときには掛けられなかった関東のホスト局に掛け放題なんですよね。テレホーダイも始まるし。。。あと18歳になったのも大きくて、親の許可がなくても銀行引き落としの手続きが可能になって、有料のネットと繋ぐことができるようになったんです。そこでASCIInetっていうところに入って、そこのjunk.testに集う人々といろいろ会話をするようになって、ASCIInetの中で谷山浩子ファン集っていたtaniyama.nemuko.bbsっていうのに入り浸るようになりました。
川井: やっぱり谷山浩子さんが重要なキーなんですね。

荻野: そうなんです。それが伝えられれば、このインタビューの僕の目的は達せられます(笑)
川井: なるほど。今でもかなり好きなんですね。

荻野: はい。高橋征義さんと初めて会ったのも谷山浩子さんがきっかけなんです。
川井: 確かに高橋征義さんも好きだって言ってましたね。

荻野: で、そのASCIInetのオフ会で、Niftyにいくと今でいう掲示板みたいなホームパーティっていうのがあって、そこには谷山浩子さん本人がいるんだよって聞いたんです。谷山浩子さんの「パジャマの樹」っていう楽曲があって、それにちなんで「パジャマの森」って言うんですけど、そこにたどり着いて、ASCIIの「NetWorker」がきっかけで、パソコン通信を始めたら、今はひっくり返ってコンピュータそのものに熱中していますって自己紹介を書いたんです。当時は新入会の自己紹介全部に谷山さんご本人が返事を書いていたんですけど、僕のにも「何年も前のことなんでもう何を書いたか覚えていませんが、一人の少年の人生を方向づけたと思うと感無量ですね」っていうようなことを書いてくださったんです。
川井: 感動ですね。

荻野: それも「方向づけた」の部分は、「捻じ曲げた」を^Hで消して書いてあったという(笑)
川井: (笑)

荻野: いきなりご本人から返事をもらったのでかなり舞い上がって、これはなんと素晴らしい場所なんだろうと思って、そこにずっと入り浸っていました。
川井: なるほど。

荻野: そのホームパーティで自己紹介の返事以外に谷山さん本人が出てくるには、いろいろとコツがあるんですけど、何回か本人から直接レスをもらうような体験もしました。
川井: 発言の内容を工夫するんですか?

荻野: そうですね、なんかひっかかるようなことを書くとか(笑)熱中しましたね。
川井: これは他のことはできませんね(笑)

荻野: そうですね。あと同じ時期くらいだと思うんですが、ポケコンのプログラムにもはまっていたんです。当時のポケコンのプログラムの頂点に位置していたのが、HP95LXとかHP100LXとかヒューレットパッカードの小さいコンピュータ達なんですけど、そのポケコンのマニュアルが当然英語なんですけど、規格品みたいなものでHP本社から取り寄せなくちゃいけなくて高いんですよ。当時、横河ヒューレットパッカードさんがやっていて、それがないと書けないプログラムとかがあったんですね。欲しいんだけど高くて買えないと思っていたときに、その翻訳のプロジェクトをやっている会社が都立大の近くの唐木田っていう駅にあったんですよ。
川井: 唐木田にですか。

荻野: それをたまたま学内の友人がアルバイトの面接にいって、なんかこういうことをやっているみたいだよって聞いてきて、それでその会社にすぐさま連絡を取ったんです。
川井: すごい行動早いですね。

荻野: それで面接に行って、即採用されました。HPのマニュアルを翻訳出版していたような会社なんですけど、そこで翻訳とDTPのアルバイトを始めたんです。
川井: デザインもできたんですか?

荻野: 見よう見真似でQuarkだとかIllustlatorとかを扱うことはできたんですよ。ただ、自分ではMacintoshは持っていなかったんですよ。X68000ユーザーはMacを買うっていうのは最大の犯罪ですからね(笑)
川井: そりゃあ、まずいですね(笑)

荻野: 寝返ったとか言われるような許されざる行為なんですよ。
川井: そうですよね。

荻野: これは仕事なんだと割り切って、Macの操作をしていましたね。Macを使って本格的にアルバイトを始めたら、そっちに熱中してしまいまして、授業に全然行かなくなりました。
川井: そうなりますよね。それはよく分かります。

荻野: 東京に来ると悪い友達が増えるって言いますけど、その通りで、ASCIInetのtaniyama.nemuko.bbsのオフ会とかNiftyの谷山浩子ホームパーティのオフ会とかに出入りするうちに、コンサートとかは全部行くのが当然でしょっていう空気に毒されてしまって、それまではたまに行けただけで楽しかったんですけど、いわゆる追っかけっていうのが始まってしまったんです。
川井: なるほど。

荻野: 全国を旅しなくちゃいけないし、チケット代もいるし、行った先で飲み食いするしで、とにかくお金がいるんですよ。昼間はDTPをやって、夜はガソリンスタンドでバイトして、それで午前中に学校にいくと寝ているみたいなそんな生活をずっと続けました。
川井: 結構、やられてますね。

荻野: 初めてコンサートに行ったのは高校3年生の夏休みなんですけど、横浜SF大会に谷山さんが出るって聞いて、夏期講習にかこつけて東京に出て、ついでに行ったのが初めてのコンサート体験で、その後2年くらいは細々とたまにコンサートに行ってたんですが、そういったぽつぽつ行っているだけじゃ満足できなくなって地方にも出かけるようになって、福岡のコンサートに行ったときにアンケートにそのことを書いたら、パジャマの森のBBSで谷山さん本人から「おぎのさん、初めての遠征お疲れ様です」っていうメッセージがあって、それで弾みがついちゃったんです(笑)
川井: (大笑)

荻野: それで、嬉しいなあって思って、94年にはネパールのコンサートまで行きました。それが私の初の海外旅行で初の飛行機でした。
川井: すごいエネルギーですね。

荻野: 本当に楽しかったですね。何もかも夢中になっていた感じでしたね。
川井: その後はどんな学生生活というかバイト生活を送ったんですか?

荻野: その会社の特性で、計測器だとかコンピュータのソフトだとかのマニュアル出版なんで、デザインとかレイアウトに凝るよりも、たくさんのページを早く組み版しなきゃいけないっていう要求が強くなってきたんです。そこでAdobeのFrameMaker とかのソフトを使っていたんですけど、ある日、TeXのマクロを上手く使いこなすと早く組み版ができるっていろいろな人に教えてもらって実験的に組んでみたんですよ。そういうところでDTPを効率化するためにMS WordやFrameMakerのマクロを書き、TeXのプログラミングをやっていくうちに、やっぱりプログラミングは楽しいなあと思うようになっていったんです。きっかけはDTPのアルバイトだったんです。
川井: なるほど。

荻野: その時の会社の人に知られたら怒られるかもしれないんですけど、2日くらいかかるという見積もりのものを、マクロで15分くらいで処理して、ミスがないかチェックだけして、あとは自分の好きなことをする時間に使っていたんです。
川井: やりますね。

荻野: でも、それが徐々にばれてきたりもして、結局給料を上げてもらったりしましたね。なので、DTPのアルバイトから本格的にScriptを書くことをお金にするってことに目覚めたんです。
川井: この頃は仕事は、この線でいこうというのはあったんですか?

荻野: 全然なかったですね。その頃は勉強してなかったんですが、いつか研究者になるんだと思っていました。その割には追っかけばっかりだったんですけどね(笑)
川井: いつぐらいに研究者はやばいかなって思ったんですか?

荻野: 第一の関門は院試でしたね。大学院の入試に受からないとそれどころじゃないんですけど、それ以前に4年生の研究室の配属の時点でどの研究室に行ったらいいか分からなくてどこにも行き場所がないみたいな感じになってしまっていたんです。
川井: そうなんですか。

荻野: それで、少し話はさかのぼるんですけど、大学1年の時に、JUNETを使うと、電話代がかからずにASCIIにつなげるよってある人に教えられて、計算機センターの先生にJUNETを使わせてくださいって直訴しに行ったんです。当時はまだ専門にいかないとアドレスは配らないよって感じだったんですが、1年生が来たからか珍しがられて、数学科の中ではコンピュータで知られた研究室を紹介してもらったんですよ。その研究室の先生に1年の時から結構お世話になりましたね。今はもうJUNETじゃなくて、JP.Internetになったんだよっていうちょうどそういう時期だったんですよ。モザイク登場前夜くらいかな。それでモザイクが現れて、ネットスケープが現れてという時期。それで結局4年生のときもその先生のところにお世話になることになって、計算機数学のような分野をやることになったんです。
川井: なるほど。

荻野: それでひいこら言いながら半年間、バイトを控えめにして試練だなと言いながら院試の勉強をして、駄目だろうなと思っていたんですけど、一夜漬けが功を奏して、受かってしまって大学院でも勉強ができるということになったんです。なんですが、4年生だった96年の11月くらいに数学科にいた若い先生の知りあいが会社を作っていて、コンピュータが好きな学生のアルバイトを探しているんだけどって紹介されて、行ってみたんです。何をやるか分からないままに面接に行って、その助手の先生の紹介だから信頼するって言われて、何ができるか聞かれないままに採用されたんです。
川井: 前のアルバイトはもう辞めていたんですか?

荻野: まだやっていたんですけど、Scriptを書きながら、もっと本格的なプログラミングをやってみたいなと半年くらい思っていた時期で、大学院の試験のために休んでいたのもあって、そのまま止めてここに移ったんです。
川井: なるほど。

荻野: 配属されたのはCADをやっている部署で、ほとんど本格的なプログラミングはやったことがなかったんですけど、上司の方もX68000ユーザー同士だったということで、初日から結構、意気投合して、すごく丁寧に教えてもらって、C++でCADのモジュールの一部分を担当して作っているうちに、そこの会社のアルバイトに本当にはまってしまったんです。
川井: 本当にかなりはまりやすいですね(笑)

荻野: そうなんです(笑)ついこの間まで、あれだけ苦労して院試に通って、これからは研究に専念するぞって思っていたのに、修士に入る直前から行きはじめて、今度はその会社のアルバイトが生活の中心になったという感じですね。それが96年から97年にかけての出来事で、結局、M2の途中からですかね、その会社の方に、大学院に在籍したままでもいいから社員扱いにしてあげるよって言われたんです。社員になれば、表にも出せるし、いろいろ任せられるし、社会保険もつくからってことだったので、二つ返事で是非っていうことで、それが最初の就職になりましたね。
川井: 内部リクルートですね。

荻野: アルバイトから社員登用するって、今考えてみるととても効率的な話なんですけど、当時の私からみると、そんなことをしていただけるのはなんて光栄なんでしょうみたいな話だったんですよ。
川井: そうですよね。就職活動しなくていいんだみたいな感じですよね。

荻野: 僕はドクターに行くって公言していたんですけど、こいつは学校を辞めるだろうって読みがあったみたいで、それでもいいからって言われたんです。
川井: 何年くらいこちらにいたんですか?

荻野: 2年くらいですかね。そのあとフリーランスというか単なるぷー太郎みたいなのを挟んだりして、そのときもお仕事をもらっていました。C++はそこで本格的に習得しましたし、いわゆる受託開発の仕方の要件定義とか仕様設計して実装してというのもそこで教えてもらいましたので、結構、勉強させてもらいました。
川井: なるほど。何歳くらいまでの話になるんですかね。

荻野: 24,5歳くらいまで関わっていたんじゃないですかね。
川井: なるほど。

荻野: それと並行している話なんですが、NeXTっていう黒いコンピュータを買ったんです。これはアップルコンピュータのスティーブジョブズがアップルを追われてから作ったコンピュータなんですよ。買ったのは95年なんですけど、その頃X68000を使っててすごく非力だと感じるようになってきていたんです。次に出てからしばらくしているX68030ってマシンを大枚はたいて買うか、ユーザーが同人ハードみたいにして作っていたX68030-040turboっていうのがあって、それを買うかってずっと悩んでたんです。Macを買うっていうのはさきほども言いましたけど、考えられませんでした(笑) その時に、研究室でNeXTっていうのを見て一目惚れしてしまったんです。なぜかっていうと黒かったからなんです。黒いコンピュータをずっと探していたんですよ。X68000も黒いツインタワーのあの外見がよかったわけですよ。自分の部屋に置くコンピュータは格好よくないと駄目だって思っていて、NeXTを見た瞬間に私はこれを買わねばならないと思ったんです。
川井: なるほど(笑)

荻野: その時に谷山浩子さんのオフ会で知り合った、結構コアなコンピュータの技術者の方が、これからはオブジェクト指向だよみたいな感じでいろいろ懇切丁寧に教えてくれて、Smalltalkをやらねばならないとか偏った知識をいっぱい授けてくれたんですけど、その人に相談したら、NeXTはとても素性のいいマシンだから買うといいんじゃないかって言われたんです。ということもあって、NeXTを買いました。でも結構向こう見ずだったみたいで、さっぱり使い方が分からないんですよ。
川井: なるほど(笑)

荻野: 当時、発売から5年くらいたってちょうどリース落ちの中古が出てくる時期だったんです。リース落ちのNeXT Cubeを秋葉原で40万くらいで買ったんですけど、使い方が分からなかったんです。今にして思えば、それがUNIXとかオブジェクト指向との出会いでしたね。でも何をしていいか分からないので困ってしまって、ASCIInetとかでもいろいろ助けを求めていたら、NeXTユーザー会(NeXus)っていうのを発見したんです。そこで例会っていうのをやっていて、月1回集まって、勉強会みたいなことをしていたんですよ。NeXTを当時買っていたのって、お医者さんとか社長さんとかばかりだったんですけど、そういう人達が自分の作ったプログラムを楽しそうに見せ合ったり、技術のノウハウを交換したりしていたんです。
川井: そうなんですか。

荻野: 95年とか96年はNeXTは冬の時代でこれからどうなるか分からないっていう時だったんです。もうハードウェアからも撤退しちゃったし、ソフトウェアもばか高いのはあるにはあるけど、あんまり活発にバージョンアップされているわけでもないしっていう感じで、NeXTユーザー会自体の活動も段々とまばらになっていたんですね。
川井: そりゃ、そうなりますよね。

荻野: でも、最初の例会がとても面白くて役に立ったんで、僕としては困るわけですよ。それで、事務局に掛け合ったら、やるって人がいればやるんじゃないのみたいなことを言われて、勝手にユーザー会の渉外担当を名乗っていいからって許可も貰ったんで、会場を提供してもらえる日程を調整して、あちこちにNeXTユーザー会のお知らせっていうのを投げて回ったんです。勿論ボランティアなんですけどね。NeXTユーザー会の人たちにもいろんなことを教えてもらって感謝しているんです。これも今思えば、コミュニティ活動ですね。
川井: そうですね。コミュニティ活動ですよね。

荻野: NeXTっていうのは今の型の私のプログラムの原点なんですよね。本格的というかプログラムにも研究的な知識が必要だっていうのを肌で分かったんです。
川井: なるほど。

荻野: そして、96年12月20日ですね。忘れられない日が来ます。アップルコンピュータがNeXTの買収を発表したんです。それで、私はX68000ユーザーだったんで絶対に買わないと思っていたMacintoshのメーカーに戻ってくることになって、NeXTが買収されるという形でアップルのユーザーになったんです。
川井: そういうこともあるんですね。

荻野: NeXTでいろいろやっていくうちに、この環境でこれを活かした仕事がしたいって強烈に思うようになったんです。NeXTユーザー会にいる諸先輩方はそういう道を確立されていたんですけど、僕にはそんなコネもなかったし、今いる会社でそういうことができたらいいなとも思っていましたけど、いきなりそんな提案もできないしという感じだったんです。もうNeXTのハードウェアなんかなくてもPCでNeXTの技術なんかは使えるようになっていて、OpenStep for Windowsなんていう技術とかも出ていましたから、そういうのをやりたいなっていう提案を少ししてみたんですけど、会社はそのとき、WebLogicという技術に注力することを決めていたんです。僕はそのWebLogic部隊じゃなくて、C++でCADを書いたり、Delphiでタッチスクリーンの端末を書いてみたりということをずっとやらせてもらっていたんですけど、好きなものを使えるところにいかないと駄目なんじゃないかなってぼんやり思い始めたんです。
川井: なるほど。

荻野: それで、NeXTに関係する仕事をしたいしたいってずっと思っていたら、当時のNeXTユーザー会の重鎮というか有名人だった佐藤徹さんという人が、そんなにやりたかったら一緒にやろうかって声をかけてくれたんです。その後、いろいろ紆余曲折があって、それまでいた会社を辞めて、佐藤徹さんからお仕事をもらって、フリーランスでNeXTの仕事をすることにしました。
川井: なるほど。そうだったんですね。

荻野: 佐藤さんはキヤノンででNeXTのサポートをずっとやっていた方で、キヤノンを辞められて、そのあといろいろとあって当時はガラパゴスシステムズという屋号で個人で活動することを決めたところだったんです。なんでそんな名前かというと、当時アップルが発表したNeXT由来のOSの名前がダーウィンだったので、それにちなんだ名前をつけようと発想したらしいいんです。
川井: そうなんですね。

荻野: それで、佐藤さんといくつか一緒に仕事をするうちに、佐藤さんから、やっぱり会社にしようかと思うんだけど一緒に会社にしないかって声をかけてもらったんですよ。僕も望んでいたことなんで、こちらからもお願いして、ガラパゴスシステムズの立ち上げメンバーとして一緒に起業したんです。
川井: 起業したんですか!

荻野: まあ、個人事業の法人成りなんですけどね。最初はチーフプログラマーで、後にCTOにしてもらいました。
川井: 会社はまだ残っているんですか?

荻野: 会社自体はまだありますね。そこでも受託開発をたくさんやって、まあトラブルとかも一通り経験して、出入り禁止になった会社もあり、成功事例もいくつかあってといういろいろな経験をさせてもらったんですけど、やっぱり、最初の会社もベンチャーで少人数だったんですけど、あくまで人が作った会社だったので、自分が会社を作るっていうのはこんなに大変なことなんだなと感じましたね。常に稼いできて他のスタッフにお給料を払わないといけないし、預金残高とかを気にしないといけないですからすごく大変だったんですけど、それなりにやりがいはありましたね。
川井: それは大変ですよね。

荻野: でも、ガラパゴスシステムズはNeXTのことしかやりませんって標榜していたし、佐藤さんも業界ではそういう意味で名が知れていた方なので、やる内容については全然悩まなくていいんですよ。うちがやるからには、NeXTですよ、WebObjectsですよ、Mac OS X Serverですよって、そういうポジションがちゃんと確立されていて、非常に楽しかったですね。
川井: 色がはっきりしていたんですね。

荻野: はい。当時、NeXTの技術で食おうと思ったら、WebObjectsしかなかったんでそれをずっとやっていました。WebObjectsは本当に素晴らしいフレームワークだと思います。あと、大規模ネットワークを構築するにはMac OS X Serverが非常に有効なんですけど、それは佐藤さんが得意な領域だったので、私はWebObjectsのプログラミングという棲み分けでやっていたんです。
川井: なるほど。

荻野: WebObjectsっていうのは、アップルが販売していた開発環境で、1994年に発表されています。なので世界最古のWebアプリケーションサーバーフレームワークなんです。一時期、アップルとNeXTの間で権利関係が不透明になって買えない時期があったんですけど、後にアップルからちゃんと発売されて、それを買ってずっとSIの時に使っていました。
川井: これは何年くらいやられていたんですか?

荻野: 2003年くらいまでですかね。
川井: ということは4年くらいですか。それは、立ちあげられて軌道に乗ってくる中で、何か意見の相違とかが出てきたりしたんですか?

荻野: そんなに強い対立があったわけじゃないんですけど、簡単に言うと違うことがやりたくなってきたということですかね。実際にうまくいかなかったプロジェクトとかがありまして、今、いろいろ話題にもなっていますけど、受託開発の限界っていうのがあるんじゃないかっていうちょっとした挫折がありましたね。あと、Paul Grahamさんの一連のエッセイをある時に読んだんです。その中に「もうひとつの未来への道(The Other Road Ahead)」というタイトルのエッセイがあるんですけど、このタイトルはビルゲイツさんの著書の「ビルゲイツ未来を語る(The Road Ahead)」に対応したもので、ビルゲイツ以外の未来への道っていう原題なんですよ。
川井: そうなんですか。

荻野: その中でWebアプリケーションこそが未来のアプリケーションの形だってことをかなり力強く言っているんですね。僕はWebObjectsのプロジェクトをずっとやっている中で迷いを感じていた部分があったんですね。それは何故かというと、例えば合い見積りになったときなんかだと、VBの作りん込んだアプリケーションなんかとコンペティになってあたるわけなんですけど、WebObjectsを提案することによって、使いにくいWebブラウザの操作をお客さんに強要しているんじゃないか、ネイティブのアプリケーションならできることを戻るボタンも使いにくいようなWebアプリケーションの世界を強要しているんじゃないかっていう漠然たる不安感があったんですね。その不安感をこのエッセイが奇麗に払拭してくれたんです。
川井: なるほど。

荻野: この方は、Yahooストアを作ってYahooに売り払ったことで有名なわけですけど、実際にそういう風に成功した人が、あとからあのときの成功を振り返るみたいに言ってて、そんなに昔からこういうことを見抜いていた人がいたとしたら、自分はなんと愚かだったのだろか、それもWebObjectsという最高の武器を持っていながらそれができていなかったなんてと思って、やっぱりこういうことをやらないと駄目なんだなと思ったんです。
川井: なるほど。

荻野: 特にこのエッセイが言外に言っていたのは、コンシューマー向けのサービスをやらないといけないっていうことでした。ユーザーがたくさんいないとWebアプリケーションの良さが生きてこないんですよ。当時、ユーザーが多くてせいぜい50人とかのイントラネットの仕事とかが多かったんですよね。そうやって考えたら、イントラや社内のシステムの受託開発をやっているよりももっと違う方法があるんじゃないかなって思ったんです。
川井: そういう展開なんですね。

荻野: はい。でも佐藤さんはずっとお世話になったパートナーですから、足を向けては寝れないんですけど、佐藤さんが方針転換してくれる気もしなかったし、もっと堅実な道を考えている方だったんでそもそも彼の志向とはマッチしないだろうし、やっぱりちょっと辞めようかなと思って飛び出したって感じですね。
川井: なるほど。

荻野: その後、首尾よくというか同じタイミングでNeXTユーザー会で、ずっと僕らにプログラムを教えてくれていたすごい人が東海地方から東京に出てくることになって、ちょうど一緒に仕事をしていたんで後釜になってくださいってお願いして、その人が今のCTOになっているという感じです。
川井: そうでしたか。

荻野: でも結局、そのガラパゴスでお世話になったお客さんの繋がりや、つてを使って個人的なお仕事をもらってというのがしばらく続きましたね。

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会社社名 コントロールプラス株式会社
http://www.ctrl-plus.jp/
設立 2005年3月3日

代表取締役社長 村田 マリ
従業員 15名(契約・アルバイト含む)
事業内容 1.インターネットホームページの企画および制作

2.インターネット広告代理店

3.メディア事業 「デート通.jp」「キャリアコンサルタント.jp」

4.イベント企画および運営

5.セールスツール、ノベルティ制作

所在地 〒103-0025
東京都中央区日本橋茅場町2-12-2 Apartment 2122 3C
(茅場町1番出口から徒歩1分)

◆ 1975年生まれ。新潟県糸魚川市出身。
◆ 東京都立大学在学中からプログラミングのアルバイトをはじめ、フリーランス、起業なども経験しつつ数社を経た末、2007年8月よりコントロールプラス株式会社にて『デート通.jp(http://www.date2.jp/)』の開発・運用を担当。
◆ 谷山浩子とネコと本とお能とコーヒーとMacとRubyをこよなく愛す。個人blogはこちら (http://d.hatena.ne.jp/ogijun/)。
◆ デート通.jpとも関係が深い、コントロールプラス株式会社の「デート支援金制度」がカヤックの柳澤さんの著書で紹介されています。

◆ 書籍『Webアプリケーション テスト手法』(共著)」

実はこの方が紹介者→ Webエンジニア武勇伝 第20回 日本Rubyの会会長・ツインスパークシニアプログラマ高橋征義氏
次に紹介したのは→ ※現在オファー中!!乞うご期待!!

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