インタビュー記事

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第2回 歌代和正 氏

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第2回の今回は、jcode.plの開発者でもあり、日本初のインターネット接続のプロジェクトやIIJテクノロジーの立ち上げにも参加した歌代和正さんに、新宿の焼肉屋「六歌仙」でお話をお聞きしました。今回はテクニカルサポートとして、株式会社ケイビーエムジェイでプロジェクトマネージャーを務める、物部英嗣氏にもご協力をいただいております。

※取材日は、2006年11月です。所属や役職などは当時のまま掲載しております。

<エンジニアって?>
川井「こんばんは。今夜はWebエンジニアの武勇伝というコーナーの取材をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします」
歌代「依頼をうけたときから言っているのですが、僕はWebエンジニアじゃないんです。あえていえばコンピューターエンジニアというのが一番近いかと思いますが、それでもいいんですか?」
川井「勿論、OKです。ちなみに歌代さんのおっしゃるコンピュータエンジニアというのは具合的にはどのようなものなんでしょうか?」
歌代「一言でいうとコンピュータを専らに使って問題を解決するプロのことですね」
川井「なるほど。それでWebに限定されるわけじゃないということですね。ちょっとコーナー名を変更するのはあれなんで(笑)このままいきますが、おっしゃっている意味はよくわかりました。ちょっと気になったんですが、キーワードで出てきた“問題解決”という意識を強く持っているエンジニアってどれほどいるんでしょうか。どうも周囲のプログラマーの声を聞いている限りでは“顧客のわがままに応えてあげている”という印象を受けますが」
歌代「プログラマーは、顧客のやりたいことを実現する際にどう解決するかや与えられた課題に対しての最適な解き方を見つけるのを楽しめる人じゃないと駄目なんです。でもそうした観点を持ってる方は少ないでしょうね」
川井「上流工程を担当するSEというのは、おっしゃってることに近いものがあるように思いますが?」
歌代「SEというのは僕の中ではそうしたプログラムをうまく書けない人の言い訳のように思いますね。やはり本来は、問題解決の視点を持ちながら最適なプログラムを組める人が本当のエンジニアなんだと思います」
川井「なるほど。歌代さんもずいぶんとそういうエンジニアとしての仕事から離れてしまっているかと思いますし、一生そうしたエンジニアの仕事ができるわけじゃあないと思うのですが、課題解決能力も最先端の技術知識も求められるとなると年齢的にも「エンジニアの寿命」みたいなものがあるのではないかと思ってしまうのですが、そのあたりはいかがでしょうか?」
歌代「僕は、エンジニアに寿命があるという考え方には立ちたくないですね。実際、僕は今でもプログラムを書けといわれれば書けるし、おそらく、2、3人分の開発はできると思います。でも10人分の開発ができるかといわれればそれはできない。そう考えたときに最大のパフォーマンスを出すためには自分自身が好きな開発だけをするのではなく、やりたくない仕事も含めてマネジメントという世界に足を踏み入れざるを得なかったんです。」
川井「とても深いお話ですね。私もエンジニアが次のステップにスムーズにあがれるか否かは、そういう観点を持てるかどうかによって決まるように思います」

<村井純教授との出会い>
川井「少し生い立ちなどお聞きしてもよいでしょうか? 子供の頃のコンピュータとの関わりとか」
歌代「はい。中学を卒業する頃からコンピュータエンジニアになりたいと思うようになったんですが、あまりコンピュータに触れていたというわけではありません。興味があって勉強したいという気持ちが強かったですね。進学は県立高校からコンピュータの勉強ができそうだったので東京理科大の情報科学科に進みました」
川井「理科大ってイメージもありませんでしたし、そういう話も聞きませんね」
歌代「あまり大学が人生に影響を及ぼしていないと思っているので、ほとんど出身大学名とか書いていませんからね」
川井「では、本格的なエンジニアへの覚醒は就職してからですか?」
歌代「そうですね。SRA(Software Research Associates)に入社して、UNIXでの商用プログラムの開発に取り組みました。同期が65人いましたが、半分以上文系であまり勉強していない僕でもそこそこわかる方でしたね。UNIXを日本ではじめて商業プログラム開発に導入した岸田さんという専務がいて、いろいろ学ばせてもらいました」
川井 「最初に取り組んだのはどんな仕事だったんですか?」
歌代 「環境開発部に配属になって、開発するための環境を作るのが仕事でした。プログラマーが使うためのプログラムを作ったんです」
川井 「歌代さんのイメージには結びつかない地味な仕事にも見えますね」
歌代 「そういう仕事の中でも僕は楽しみを見出せるんです。どんな仕事でも面白くできるということは相当能力が高くないとできないとおもいますが、とっても大切な能力だと思います」
川井 「なるほど。確かにどんな仕事にも本質はあるし、楽しみってあるものですよね。楽しんだもの勝ちだし、楽しんだ人だけがそこで何かを得るわけですね。それからどうなったんですか?」
歌代「そうこうしているうちに、83年くらいから慶応大学との共同研究が始まって、SRAの岸田さんについて毎月の定例会議に参加して議事録をとる仕事を任されました」
川井「これまた地味ですね(笑)」
歌代「ところがメンバーがすごかったんです。後にSFCの学部長になった齋藤信男先生、今でも慶應で活躍している村井純先生や中村修先生などがいました」
川井「そりゃあ、また派手な!(笑)」
歌代「次世代オペレーティングシステムの研究だったんですが、話が高度すぎるし英語も含めて、まったくわからないんです。それでとにかく全部メモをとって、翌日、本で片っ端から調べました。そういう生活をしていたんで、就職してからかなり勉強をしましたね」
川井「若い時代のそういう努力がその後の歌代さんの華々しい業績につながったんですね」
歌代「そうかもしれませんね。ありがたいことです」
川井「その後はインターネットの研究に没頭したという感じですか?」
歌代「その後、東大、東工大、慶応大学とSRA、アスキー、NECといった民間企業が集まってJUNETやWIDEプロジェクトといったプロジェクトが立ち上がっていくのです。WIDEプロジェクトというのは広域分散コンピューティング環境を構築する技術の確立を目指す、オペレーティングシステム技術と通信技術を基盤とした研究プロジェクトで、最終目的は当然、散らばっている研究者をつないで研究成果を高めることなんです。今でいうオープンソースの開発みたいなものですね。でも僕は、その目的を達するための手段であるネットワーク環境を作りながら、ネットワークそのものが面白くなってしまったんです。手段が目的になってしまたんですよ」
川井「なるほど。それって、さきほどお話していただいた、どんな仕事でも楽しんでやるという歌代さんの姿勢があればこそかもしれませんね。大変、深いお話だと思います」

<IIJの立上げとjcode.plの開発>
川井「IIJには立上から参加されたのですか?」
歌代「正確に言うと、発起人ではあるのですが、立上げメンバーではありません。94年にSRAを辞めてIIJに移りました。90年頃には巷でもインターネットが話題になっていて、WIDE プロジェクトのスポンサー企業はWIDE Internetという研究ネットワークを使用することができましたが、他の企業からの要望には対応することができなかった。ところが、村井純教授が商用インターネットサービスの必要性を大手メーカーなどに訴えかけてもどこも乗ってこない。まだ本当に実用化できるのかわからない時代で、そんなリスクなんかとれませんから当たり前といえば当たり前ですけどね。そこで自分たちでやってしまおうといって、92年の12月に設立したのがIIJだったんです。」
川井「ある意味、時代の必然で生まれた組織ですね」
歌代「でもやはり役所からは厳しい目で見られました。公共の通信事業みたいなことをやるわけですから、簡単に事業撤退や倒産しては困るわけで、郵政省からは2年間無収入でも会社が潰れないことを条件に出されました」
川井「国はご都合主義なところと十羽一絡げに無難な線の収めることを第一優先しますから仕方ないでしょうね(笑)。そういえば、歌代さんが作った、jcode.plってこの時期じゃありませんでしたっけ?」
歌代「そうですね、このくらいかな。そもそも何か目的があったわけじゃなくて、原稿を書くためだったんです。Perlの走りの時期で順番に雑誌に原稿を書いていたんですが、新しいプログラムを書いてネタにして原稿を書こうと思って作ったんです。でも、思いのほか流行りました(笑)」
川井「ここでも手段が目的になってしまったんですね(笑)」
歌代「僕は本当にプログラムが好きなんですよ。放っておくと1日中プログラムを書いてる。その作っていく過程でいろいろ分かってきたり思いついたりするとそれを使いたくなってしまうんです。だから仕事がはかどらないんですけどね(笑)」
川井「もしかして締め切りは守らないタイプですか?」
歌代「頑張って頑張って、それでも締め切りを少し過ぎて出すタイプです(笑) 関係のない仕事をいっぱいやってるんです。ドキュメントを書くためにワープロ作っちゃうみたいに。いっしょにすると怒られますが、ドナルド・クヌースという数学者は本を出版するために組版プログラムを作ったんですよ」
川井「いえいえ、いっしょにしてもいいのではないですか。大変立派な業績だと思います」

<今後はどんなことを?>
川井「これから先のことを少しお聞きしたいのですが」
歌代「人生の中で本格的に労働している時間というのは多分40年くらいだと思います。40年を4つに区切ると10年になりますが、いつも締め切りにちょっと遅れるので、今のところ11年周期くらいで推移していて、今はその半分を過ぎたあたりになります。僕は22歳から働いているので、ちょうどぞろ目の歳の33歳、44歳、55歳が区切りになります」
川井「それぞれにテーマを設定されているということですね」
歌代「確かにそうですね。最初の四半期はプログラマでした。次の四半期はネットワークセキュリティの世界に入って、サービスの立ち上げから最後は経営の真似事までやらせてもらいました。その間に IPO があったり関連会社の経営破綻があったりと、普通のサラリーマンとしての経験は一通りさせてもらったので、これからは少し会社組織から離れた形での仕事の形態を模索している段階です。今は、いくつかの会社や組織の仕事を少しずつ手伝ったり、自宅で翻訳の仕事をやったりしています。複数の組織に所属することを複属性と呼んで、新しい仕事の形態として提案する方もいるようです。そういう意味では、現四半期は最後の四半期に向けての準備期間ということになりますね。起承転結の転の時期です」
川井「最後の四半期については具体的なイメージはお持ちなのですか?」
歌代「結の段階で何をやっているかはわからないのですが、今とは全然違う業界の仕事をしている可能性も含めて55歳くらいまでに時間をかけて探していきたいと思っているところです。その頃になれば息子たちも大きくなっているだろうから、家から追い出しちゃって、生活パターンも今と違うものになっていてもいいかと思うのです」
川井「これまで、手段が目的になってきた歌代さんですから、日々の仕事や活動の中で、最後の四半期を締めくくる何かを見つけてしまいそうですね。どんなことをされるのか、楽しみにしていますね」
歌代「ははは。そうだといいんですが」
川井「本日は、本当にありがとうございました。いろいろエンジニアにとって参考になる貴重なお話をお聞きすることができました」
歌代「いえいえ、こちらこそご馳走様でした」

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