インタビュー記事

interview

第17回 吉田敬 氏

yoshida_main

今回は、リクルート出身で「楽天」の急成長を支え、取締役、常務、CTOなどを歴任された吉田敬さんにお話をお聞きしました。吉田さんは2007年1月の「楽天」退任後、ピー・アンド・エー株式会社を設立。代表取締役社長に就任し、「投資事業」「絶滅の危機にある動物を保護する事業」を営んでおられますが、2008年はインターネットサービス事業の展開も検討されています。また、吉田さんは「パンダ愛好家」でもあり、今春、パンダのぬいぐるみの販売も予定されています。取材でお邪魔した六本木にあるミッドタウンのオフィスに併設されているサロンはパンダづくしでした。取材後、近隣の京料理店「和山」にご案内いただき、引き続きお話をお聞きしました。こちらは、京都祇園新橋で3代に渡り営業を続ける老舗創作割烹の東京初進出店です。

※取材日は、2008年1月です。所属や役職などは当時のまま掲載しております。

<PCとの出会いは?>
川井 吉田さん、こんにちは。本日はよろしくお願いいたします。
吉田 こちらこそ、よろしくお願いします。
川井 吉田さんは、リクルートに入って数年してから本格的にプログラミングを身につけたというある意味、珍しい経歴をお持ちですが、そうはいっても昔からプログラムやコンピュータに興味があったんですか?
吉田 母親が理科の先生だったからなのかもしれませんが、子供の頃からエレクトロニクスに触れる機会を多く作ってもらえました。エレクトロニクス技術検定の4級なんかも持ってますよ(笑)この前、古いものを整理していたら、偶然、子供の頃に遊んでいた「学研電子ブロックEX‐15」っていうのが出てきたんです。コンデンサになっているブロックを配置して組み立てるとトランジスタラジオとかを作れるんです。
川井 すごい年代物ですね! 
吉田 大学生になるまでは、マイコンとかパソコンにはあまり縁がなくてザベ(The BASIC)なんかも読んでなかったんですが、当時流行った任天堂のゲームはすごいなーと思いましたね。
川井 やっぱりゲームには興味があったんですね。これまでインタビューした方々と志向性は一致していますね。マイコンとかパソコンに手を出さなかったのが不思議な感じがしますね。
吉田 当時って、マイコンとかパソコンをやっているだけで別人種みたいな言われ方していたじゃないですか。そういうので抵抗があったのかもしれませんね。
川井 確かにそういう時代だったかもしれませんね。まだ珍しかったですからね。でも、それだけ興味があったのに、そういう学部に進まなかったのは訳があるんですか?
吉田 実は、理科系に行きたかったんですが、高校のときに物理で赤点を取ってしまって、それであきらめました。高校時代は陸上の部活にのめりこんでいたので、勉強どころじゃなかったんですよね。
川井 ということは、PCとの出会いは、大学入学以降ということなんですね。どんなきっかけだったんですか?
吉田 そうですね。大学のとき(1988年)にPC9801VX21を購入して、パソコン通信を始めたり、カード型データベースソフトに触って感動したりもしていましたが、本格的にプログラミングを始めたのはリクルートに入ってしばらくしてからです。実はリクルートに入ってから同期のエンジニアなんかに、プログラミングに興味があるとかやってみたいというような話をしていたんですが、ことごとく「文系には無理」って否定されていたんです。まあ、当時、その部署で扱っていたマシンはTandemだったので、そう言われても仕方がなかったんですけどね。そんな中、契機となったのは、入社3年目の終わりに荒井尚英さん(現:株式会社アイ・エム・ジェイ取締役)が主催された「電子メディア勉強会」に参加し、インターネットについての講義を聞いたことでした。
川井 それは、技術的な興味の延長だったんですか? それともビジネス的な興味だったんでしょうか?
吉田 技術そのものというより技術を使って何を構築できるかに非常に可能性を感じ、興奮したのを昨日のことのように覚えています。リクルートで、元々は紙の世界にいたので、動画とかアニメまでもが配信できるというところに「表現メディアの可能性」を見た気がしましたね。
川井 なるほど。
吉田 生粋のエンジニアではないせいか、基礎技術みたいなものにはあまり関心がないんです。それよりも基礎技術を組み合わせて新しい価値のあるものを創るということに興味がありますね。
川井 とてもいいバランスですよね。それで異動希望を出したんですか?
吉田 いえ、僕が異動希望を出すまでもなく、個人でHPを開いている変わった奴、ということで、先方の事業部に目をつけられたらしく、人事発令が出されました。

リクルートから楽天へ
川井 リクルートの電子メディア事業部では具体的にはどんな仕事をされたんですか?
吉田 1995年頃のインターネット業界の制作工程においては、仕事が分化されていなくて、1人でプロデュースもするし、プログラミングもするし、宣伝も広告営業もするという感じでした。だから、「一人で何役もできる奴が強いな」、と感じ、それを実践していました。
川井 プロダクトやサービスを1人で立ち上げる感覚ですね。
吉田 そうです。将来、独立をしようと思っていましたから、いつかそういう風に仕事をしたかったんですけど、その仕事の仕方をリクルートで実践できたのは幸運でした。
川井 確かに、将来独立したい人にとってはとてもいい経験になる仕事ですね。
吉田 楽天でマネジメントをする立場になった時もできるだけメンバーにそういう機会を作ってあげるようにはしていましたね。
川井 このサービス構築の段階で、プログラミングのスキルが必要になったということですか?
吉田 いいえ。それ以前に自分でホームページを立ち上げる中で、どうしても動的なサービスを作りたくて、そのために独学しました。僕は当時、1995年に開設された個人ホームページ専門の検索エンジンのJ.O.Y.(Japanese Open Yellowpages)をユーザーとして使っていたんですが、あつかましくもwebmasterの斉藤さんという方に、「どうすればこういうのが作れるんですか?」とメールして、斉藤さんがお返事をくださって、それでPerlやレンタルサーバーやUNIXを覚えたというわけです。斉藤さんにはとても親切にしていただきました。
川井 そうなんですか。Perlなんですね。
吉田 はい。C言語とかパスカルやリスプも少し勉強したんですけど、最初の定義とか宣言みたいなものに時間がかかるんで、勉強するのに何ヶ月かかかっちゃうんです。Perlは、コンパイルする必要が無いインタプリタ型の言語ですし、テキストの扱いにおいて柔軟性が高いので、具体的な結果が出やすく、結果としては初心者が挫折しない内に覚えられる言語だと思います。
川井 Perlは多少いい加減に書いても動くっていいますよね。
吉田 PHP/FIは、Ver2の時から使っていますが、Perlよりも更に具体的アウトプットを出しやすくて、とっつきやすいと思います。
川井 なるほど。
吉田 勘定系のシステムと違って、情報系のシステムは、「まず作る」というのが成功の鍵のような気がします。というのも、勘定系は歴史があって、使う人の顔が見えているから要件定義がしやすいんですが、情報系は歴史もないし、使う人も特定できないという事情があって要件定義がしづらい為です。ここで、情報系にも関わらず要件定義を完璧にしようと時間をかけすぎると時期を逸してしまうと思います。
川井 確かにこの世界は変化が早いですからね。その後はどんなことを?
吉田 3年半くらいいたんですが、一方自宅では日本初のスケジューラーサイトを立ち上げたりしていて、VCから出資の話も出てきたりもしていたので、インターネットを使えば、独立して、やりたいことができそうだなと手応えを感じ始めましたね。あとは独立に向けての準備として、自分に欠けている要素を補う業務に積極的に手を出すように心がけていました。プログラミングは大分できるようになっていたので、新卒の育成とかそういうことにも積極的に関わっていきました。
川井 なるほど。もう独立前提だったということですね。私もリクルート入社前から独立前提だったんですが、他の会社ではそういうのはあまりないみたいですよね。
吉田 そうなんです。普通は違うんだって思って驚きました。リクルートに入って本当によかったと思っています。今、大学生だとしてもやはりリクルートを就職先に選ぶと思います。
川井 そのリクルートを辞めようと思ったのはどういう経緯だったんですか?
吉田 Yahoo!は今も昔も日本のネット業界では非常にシェアが高いと思うんですが、できれば独立する前に日本発のサービスでYahoo!に匹敵するようなものを作っときたいという強い想いを持っていました。それを実現するためにリクルートで頑張っていたのですが、ISIZEへのブランド変更がうまく行かず、実現が難しくなってしまったなぁ、と一社員として感じていました。MixJuiceのままいっていればよかったのに、ISIZEは典型的な机上の空論だったと思います。トップにエンジニア的な要素がないとこうなっちゃうんだなっていう典型例でしたね。当時のリクルートの経営陣のインターネットへの理解は極めて弱かったですからね。
川井 なるほど。ISIZEが駄目となって、何故「楽天」を選んだんですか?
吉田 日本発のサービスでYahoo!に匹敵するようなものを作れる会社がないか探して、いろいろな会社を見て回りました。視点は2つで「NO.1領域の有無」と「経営者の利益へのこだわり」でした。まだまだ1998年前後は黎明期でしたし、Yahooの日本独自サービスがほとんどない時代でしたから、その他ベンチャー企業の中にもNO.1領域を持っている会社はたくさんありました。ただ、経営者の値踏みをしていく中で、利益を出すことをまじめにじゅうししていて、かつ技術者の重要性の分かっている経営者で、スピード感のある判断のできる社長像という理想から照らし合わせて皆を見たときには、三木谷さんは群を抜いて優秀な方だなという直感を持ちました。とはいえ、私は結構慎重なので、誘われてから決めるまで1年くらいかかりましたね。
川井 なるほど。流石、転職の際に企業を見る軸がかなりしっかりとしていますね。

「楽天」でやってきたこと
川井 楽天では最初にプログラマをやったとお聞きしましたが、どんな状況だったんでしょうか?
吉田 最初の2,3年は、ほとんど会社に泊まっていました。家に帰るのは週2回くらいで、会社に泊まる日は近くの銭湯に行っていました。昼は営業チームの支援をしているし、周りにいた社員は20代前半でまだ経験の浅い子ばかりでしたから、肩書きがなくてもマネジメントせざるを得ない状態で、自分のプログラミングの仕事は夜しかできなかったんです。
川井 そうなりますよね。
吉田 でも、私はサラリーマンだったので、そこまでやらなければいけないということでもなかったし、特に要求されたわけでもないんですが、独立に向けては大きなプラスになると思ってやっていました。まあ、要求されてないからやらないっていうのじゃあ、それ以上のレベルにはなれないので、当然といえば当然なんですけどね。
川井 いろいろなサービスを作られたんですよね?
吉田 そうですね。プログラマとしての実働は合計一年間ほどしかないのですが、「楽天グリーティングカード」「楽天広告販売・管理システム」「ケータイ版楽天市場」「楽天スーパーポイント」を担当しました。
川井 輝かしい業績ですね。マネジメントでも成果をあげられたんですよね?
吉田 そうですね。やっぱりリクルートのマネジメントってすごいんだなって実感したんですが、一般的にはモチベーションみたいなものにフォーカスしてマネジメントをしている企業って少ないみたいで、リクルートで自分自身が受けていたマネジメントをそのまま行っても、成果はあがりましたね。特に楽天の取締役は投資銀行以外の大企業で長年勤めた人がいなかったので、僕の考え方は特徴的だったと思います。インセンティブ制度を運用したり、1つ1つの仕事の評価をきちんとフィードバックしていくことで、メンバーのモチベーションは一気に高くなるじゃないですか。成果を上げたらきちんと評価して、潜在能力を引き上げ、HAPPYになって更に成果が上がるというスパイラルに入りますよね。そうすれば組織全体の売上も利益も自然と上がっていくし、個人個人も成長するんですよね。
川井 それだけ成果をあげれば、そりゃあ一気にプログラマーから役員になりますね。
吉田 確かに早期に役員にはなったんですが、最初に担当したのは営業本部だったんです。
川井 そうなんですか?
吉田 ITバブルが弾けると同時に、新規営業・既存営業ともに、それまで簡単に契約が取れていたのが嘘だったかのように落ち込んでいったんですよね。2001年当時の楽天の営業部隊はまだまだだったこともあって、この状態から自律的に脱するのは無理でしたので、一から強い営業組織を作り直すことが私のミッションでした。
川井 それこそ、リクルートの営業ノウハウが生きそうな領域ですね。しかし、プログラマだった吉田さんをいきなり営業のトップにするというのはなかなか斬新ですね。でも、吉田さんのことですから営業でも成果を上げたんですよね?
吉田 三木谷が抜擢した要因はただ一つです。月商数百万円の売上の広告事業を一年間で月商一億円にすると言って、「楽天広告販売・管理システム」なるものを僕が作り、営業マンにアドバイスをして事業拡大を実現したからだと思います。
実際担当してからの話ですが、人員や予算が限られている中で、長期的にも短期的にも売上と利益を極大化することが営業本部長の役割ですから、戦略を立てるにあたり、どのように選択と集中するか?それをどうメンバーに伝え、彼らの腹に落とし、組織として曖昧にせずに浸透させるか?それを考えていました。
その上で、リクルートでの3年半の営業マンの経験は本当に貴重だったな、と思います。その時の各施策を思い出したりしながら無我夢中でんでいました。
川井 なるほど。分かる気がします。その後は?
吉田 一年半営業本部長を勤めて、ようやくこれで楽になるぞ!と思っていたら、三木谷さんに呼ばれて、退任する初代開発本部長である本城副社長の後任をやるよう言われました。その当時は、営業と開発があまりうまくいかなくていがみあっていた時代なので正直気分が重かったというかこれは相当大変だぞ、と思いましたね。結果として、ここでも開発本部を作り直す形になるんですが、自分もそうだから分かるんですけど、エンジニアはとかく、「経営者は分かっていない失敗の原因をとかくエンジニアに押しつけたがる」と考えがちだと思うし、これはある意味当たっていると思うんで、そう思わせずに結果として組織を改革するにはどうしたらよいか?ということを考えましたね。で、一番の問題は「人間は相手の立場に立って考えることが苦手」ということです。そこで相手の立場を体験させてあげれば、相手を理解しやすくなるだろうと考えて、プログラマも営業や店舗の発送の仕事を経験してもらったり、営業の人にデータセンターを見学させたり相互理解のための施策を多数行いました。
もちろん僕もアプリを書くことしか理解できていなかったのですが、サーバーの構成やセキュリティといった新しい分野まで広げて技術知識を身につけていき、メンバーの訴求点が理解しやすいよう、ディテールを勉強しました。
川井 なかなか斬新ですね。その発想が生まれたのは、やはり営業本部長を経験したからということなんですよね?
吉田 というよりかは、三木谷本部長はおいといて、営業本部のメンバーが全員かつての自分の部下だった上で、開発本部長になったので、結果として三木谷さん以外のほぼ全社員に対して指示を出せたという点では、この策を成功させるためのアドバンテージがあったんですよね。この施策を続けている間、営業と開発も本当に融合してきていましたし、それぞれのメンバー個人個人も大きく成長することができたと思います。更に開発本部内で、アプリケーション系のエンジニアとシステム構築・運用系のエンジニアがもめる事もありましたが、この時は、それぞれの部署のTOPをコンバートするという事を思い切ってやりました。
川井 しかし経営的には勇気のいる決断ですよね。
吉田 でも現場のメンバーを変える事も同じくらい勇気がいる事なのに、軽々しくそれは実行している人が多いんじゃないでしょうか?最近、組織が大きくなってきてセクショナリズムが生まれた場合、どういう対策を打てばいいかというアドバイスをする機会が増えているんですが、各々の責任者層をコンバートすることを薦めているんです。できないという抵抗に会うと思いますが、本当にできない事はトップ層に限ってはまずありません。これは責任者を入れ替えるのがポイントなんです。現場のメンバーの方を入れ替えたりしがちだと思うんですが、それじゃあ反対にばらばらになってしまうと思いますし、しがらみの文化は消えません。

若いエンジニアにアドバイスを
川井 最後に若いエンジニアに向けてアドバイスをお願いしたいのですが。
吉田 エンジニアに限らず、若い方全般にという話になると思いますが、「一度しかない人生をどう生きるか」をじっくり考えてほしいと思います。本音でいうと「独立しなさい」っていう気持ちなんですけどね(笑)
川井 なるほど。吉田さんの考える「独立することの意味」ってどんなことでしょうか?
吉田 自由っていう概念に「経済的自由」と「時間的自由」という二つの概念があるということに楽天を辞めてからようやくきづきました。2003年頃には楽天で経済的自由を得られたのでその時点で辞めても良かったのに辞めずに働き続けたため、時間的には全然自由にならなかったんです。まぁ楽しかった内はそれでもいいのですが、とはいえ、僕の場合は、楽天から離れて独立することで初めて、「経済的自由」と「時間的自由」両方揃った「真の自由」を得られたわけです。
川井 なるほど。誰しも経済的にも時間的にも自由を得たいでしょうから、そうした自由を得るためにはどうすればいいか、しっかり考えるべきということですね。
吉田 そうです。やりたいことを見つけて、それをやって成功させ賞賛を得る。そして経済的にも豊かになる。それを実現させるために何が足りないのか、また足りないものをどうすれば補えるかをじっくりと考えて実行していく必要があると思います。
川井 今の時点で、やりたことが見つからない人も多いと思うんですが、そういう場合はどう考えたらよいでしょうか?
吉田 確かにやりたいことが明確なんて人はほとんどいないと思います。僕はこの指南がそもそもビジネスになるのではないかと感じています。それはさておき、独立するにしても、明確に取り組みたいことがあって独立したいって人だけでなく、何をやるかは分からないけど、とにかく独立したいとか社長になりたいというだけの人も多いと思います。僕もそうだったし、それでいいと思うんですよ。
川井 私もそんな感じでしたね。
吉田 さらにやりたいことが見えていなくて、「あらまほしき姿」が見つからない人は、そうはいってもサラリーマンをしながら、自分に足りない部分を補いながら、先に向けての準備をすればいいんだと思います。
川井 なるほど。
吉田 エンジニアの話でいうと、川井さんはエンジニアは不遇されていると言うけれど、僕はエンジニアってバラ色だと思うんですよね。他の文系的な職種に比べて仕事を探す上でもとても有利じゃないですか。それでもよい仕事やよい雇い主に出会えないと嘆いているのであれば、「自分の売り込み方」を知らないのだと思います。
川井 そうですね。かなり自分を安売りしているケースはあると思います。技術志向が高いほどコミュニケーション能力が十分でない傾向があると思います。
吉田 売り込みというのは必ずしも金だけではないと思います。もちろん目先の年収100万、200万の差は気になるとは思いますが、生涯年収を考えれば実は誤差でしかありません。年収は100万安くても自分の資産価値を年間100万円以上あげてくれる仕事であればそちらに行くべきだし、もっと自分のストックを上げることを考えるべきです。また、僕はジェネラリストであって始めてスペシャリストになれるんだと思います。人の気持ちを理解しながらコミュニケーションが取れないとそれのできるスペシャリストに比べてアウトプットが下になってしまうと思います。
川井 エンジニアやクリエーターでも顧客のやりたいことを無視して、自分の価値観で仕事をしてしまうとかいうケースがありますが、そういうスタンスに仕事の仕方はスペシャリストではないっていうことですよね。
吉田 その話、佐藤可士和さんの『佐藤可士和の超整理術』にも書いてありましたね。佐藤さんは、アートディレクターの仕事というのはブランドや商品と世の中を結びつけるコミュニケーションデザインの仕事で、アーティストのような自分の“作品”を作り上げる仕事とは違うんだってことを仕事を現場を経験して初めて身体で理解することができたそうです。
川井 そうでしたか。佐藤可士和さんって元博報堂のトップクリエーターですよね。まだその本、読んでいませんので、読んでみます。
吉田 佐藤さんとは楽天のロゴ改訂・CIでおつきあいさせていただいたのですが、この点はエンジニアにも全く同感できる「アートディレクターも同じなんだなー」と感じさせるポイントですよ。
川井 早速、今日買ってみます。あ、そんなこんなしているうちにもうお時間ですね。吉田さん、本日は、お忙しい中、本当にありがとうございました。エンジニアにとってとっても勇気がわく有意義なお話を聞くことができました。
吉田 いえいえ。こちらこそ、ありがとうございました。

<プロフィール>
1967年 東京生まれ 4歳で腎炎にかかり、小学校低学年は半分休む
1980年 私立武蔵中学校入学
1985年 小学校4年から続いていた中日ドラゴンズ熱がさらに熱狂的になり現在にいたる
1987年 1年浪人後、東京大学法学部に入学
1988年 パソコンと出会う
1989年 体育会陸上部に所属しており、インカレ10種競技で入賞
1992年 1年留年後、東京大学法学部を卒業、リクルートに入社
FAXネットワーク事業部を経て電子メディア事業部へ。プロダクトプロデュースの立場で、企画・プログラミング・宣伝・広告営業すべてを一気通貫で担当。「じゅげむ」「ダ・ヴィンチONLINE」「MixJuice」「StartPage」「ISIZE」「ポケットISIZE」などのインターネットサービスに関わる
1999年 プログラマとして楽天に入社。
プログラマーとしての実働一年間で、「楽天グリーティングカード」「楽天広告販売・管理システム」「ケータイ版楽天市場」「楽天スーパーポイント」などを生み出す。
一年後突然、取締役営業本部長に抜擢。苦境にあった楽天市場事業を一年半で立て直した後、開発本部長、楽天野球団社長、ポータルメディア事業カンパニー社長を歴任した。事業とは別に、経営者の観点から、新卒育成委員会、ハウスマナー委員会、カフェテリア委員会、六本木ヒルズ引越委員会を主催した他、会議効率化、日報作りなどの業務改善を推進する。
2007年 「楽天」の取締役を退任。ピー・アンド・エー株式会社を設立、代表取締役社長に就任し「投資事業」「絶滅の危機にある動物を保護する事業」を営む。

LINEで送る
Pocket

TO TOP