インタビュー記事

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第1回 吉岡弘隆 氏

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今回は、「あの伝説のエンジニア!」と言われるスーパーハッカーにLegendをお聞きするコーナー「スーパーハッカー列伝」の第1回として吉岡弘隆さんにご登場いただきました。吉岡さんは、2008年にミラクル・リナックス社のCTOを退任し、いちプログラマとなって話題を集めましたが、最近は、勉強会ブームの立役者として若手に最も影響を及ぼしているスーパーハッカーです。最近、取材が増えて大変ということでしたが、港区汐留にあるミラクル・リナックス社のオフィスしっかりと2時間お話をお聞きすることができました。

※取材日は、2008年10月です。所属や役職などは当時のまま掲載しております。

<PCとの出会い>
川井 吉岡さん、本日は「スーパーハッカー列伝」の記念すべき第1号ということで宜しくお願いいたします。
吉岡 宜しくお願いいたします。
川井 さっそくですが、吉岡さんのコンピューターとの出会いは何時ぐらいだったんでしょうか?
吉岡 私の中学の頃には、いわゆるパソコンっていうのはなかったんですよ。
川井 そうですよね。
吉岡 たぶん日本にパソコンていうのが出てきたのは、1970年代の後半ぐらいだと思うんですけど、私が中学生になったのが1971(S46)年なんですね。
川井 なるほど。
吉岡 その前の年の1970年が万博の年で、69年にアポロ11号みたいな感じでして、時代の空気としては高度成長だったので、割と未来に対して極めてポジティブな時代の空気があったかと思うんですよ。それで中学は慶応の付属中学に入ったんですけど、夏休みにコンピューター講座みたいなのが1週間ぐらいあったんですね。大学生が教えてくれるやつで、午前中に座学やって午後に実習するみたいなのが1週間あって、それに行ったのが初めて計算機と出会うきっかけですね。
川井 なるほど。当時はまだテープみたいな感じですか?
吉岡 当時はパンチカードですね。あれを1枚1枚打って、1枚が1行に対応してるって感じです。だから長いプログラムを書くと何十枚、何百枚にもなって大変だみたいな感じでしたね。それが最初でした。
川井 興味を持たれたきっかけっていうのは何ですか?たまたまあったからですか?
吉岡 そうですね。コンピューターっていうか電子計算機っていうものに「いったいなんだろうな?」みたいな不思議に思う気持ちがありましたね。
川井 好奇心を駆り立てられたって感じですか?
吉岡 そうですね。中学の時にそれがきっかけで面白いなっていうのがあって、夏休みにプログラムを作ってみたんですけど、アセンブリ言語かなんかの講座だったんですよね。5日間で聞くことは聞いたんだけど、どういう物なのかは中学生にとってちんぷんかんぷんなんですよ。だけどなんか「これは不思議な魅力があるな」みたいに感じて、コンピューターをもっといじくりまわしてみたいなっていう所があったんです。それで不思議なことに数学研究会ってところがコンピューターのことをやってたんで、数学研究会に入って大学のコンピューターを使うということになったんです。
川井 なるほどなるほど。数学とか科学はもともと好きだったんですか?
吉岡 それがですね、数学は正直言ってそんなに得意ではなかったですけど、証明とかはパズルを解くような感じで結構好きでしたね。科学が得意とかいうことはなかったです。
川井 クラブに入られていかがだったんですか?
吉岡 慶応の場合、付属の小中高ってあって大学の計算機が使えるんですよね。それで放課後に使わせてもらったりとか、土曜日に日吉の情報科学研究所っていうコンピューターをやってる所に行ったりしてましたね。
川井 じゃあ結構、他のことやらずにコンピューターに打ち込んでたっていう感じですか?
吉岡 他のことやらずにっていうほどでもなくて、今と違って物理的にコンピューターが自宅にあるわけじゃないから無限にやるっていうことは不可能じゃないですか。ですから放課後にちょろっとやったりとか、クラブ活動の一環ていう形なんで、24時間全部どっぷりっていう感じではないですよね。
川井 学校にいられる限られた時間の中でっていう感じですかね。
吉岡 そうですね。
川井 他の時間は、運動ですとか遊びで何かやられてたんですか?
吉岡 運動とかは特にやってなくて、中学1,2年の頃はサッカー部に入ってたんですけど、たいして運動神経がいいわけでもなくコンピューターの方が面白かったんで、そこを辞めて青白い中学生活を送ってましたね。
川井 周りにそういう方って結構いらっしゃったんですか?珍しい方だったんですか?
吉岡 同学年にはそんなに多くはなかったですね。1年上ぐらいの先輩に何人かいらっしゃいましたね。
川井 中学時代はそういうふうに過ごされた感じですかね。
吉岡 ええ、そうですね。
川井 そのままエスカレーター式で上がっていかれるわけですか?
吉岡 そうです、そうです。高校も日吉にある慶応の高校に行ってたんですけど、そこでも数学研究会に入って、とりあえずコンピューターをやってました。1974年が高校1年生で、75年ぐらいにマイクロプロセッサが徐々に日本で知られるようになってきて、76年とかそこら辺の時に「トランジスタ技術」とか「Interface」っていう雑誌が出てきたんですね。マイクロプロセッサを使った何がしかっていうのが記事で出てたと思います。そのマイクロプロセッサ自身は中央処理装置もあってメモリもあってっていう、いわゆる基本的なプログラム内臓型のコンピューターで、規模が小さいとしてもコンピューターそのものなので、それが10万円ぐらいで手に入るということに非常にびっくりした思いがありますね。
川井 なるほど。
吉岡 たぶん数学研究会にいた同世代の連中は直感的に、マイコンっていうのが出てきたことに時代の変化を感じてたんじゃないですかね。
川井 吉岡さんの人生はコンピューターの進化とともにあるみたいな感じはあるんでしょうか?
吉岡 そういう感じはありますよね。このマイクロプロセッサっていうのが、少なくとも私にとっては、世界を変えるような魔法のチップに見えましたね。
川井 なるほど。
吉岡 割とそういう意味で言うと、日本というよりもアメリカとかが直結している窓みたいな感じでしたね。数学研究会の先輩には早熟な人がいっぱいいて、高校生ぐらいでBASICのインタプリタを作っちゃう人とかもいたんです。今だったらそんなに珍しくもないんですけど、ミニコンでBASICのインタプリタ作ってる先輩もいたんです。そういう人たちは今はあんまり使われてないSNOBOL4っていう言語があってですね、それの英語のマニュアルをパラパラめくってたりしてて、なんか凄いかっこいいんですね。読んでるかは分からないけど、持ってパラパラめくってて、SNOBOL4がどうだこうだとかって何かちんぷんかんぷんなことをその先輩は言ってるわけですよ。「すごいな、こいつは」とか思いつつ、それでBASICのインタプリタ作るとか言ってるんで「なんだ、こいつらは」みたいなことを思ってましたね。そういう所にいたんで、例えば「Interface Age」っていうアメリカの雑誌とか「byte」っていうアメリカの雑誌が、パソコンの一番面白いところをやってるらしいなんてことで、英語の雑誌を買ったりとかしてましたね。なんていうのが高校あたりですね。1977年に大学に入るんですけど、その前後の年ぐらいに「ASCII」とか、ああいう雑誌が創刊されたんですね。それでそういう雑誌を友達が秋葉原かなんかで「こういう雑誌あるよ」っていって「これInterfaceのパクりだね。コンセプトはbyteだね」とか言いながら皆で読んでワイワイしてましたね。
川井 なるほど。その頃を振り返ってみて、「これを仕事にする!」みたいな感じってあったんですか?
吉岡 中学高校ぐらいでは、そこまではあんまり考えてないですよね。小学校の頃の将来の夢みたいなのは、新聞記者とかジャーナリストでした。高校生の頃も結構本を読むのが好きだったんで、文学部に行けば小説家になれるんじゃないかみたいな訳の分かんないこと言ったら、親に「それだけはやめなさい、何考えてるんだ君は」みたいな感じで言われました。「そういうものなのか・・・」と思いましたね。
川井 ご自分を表現したいとか、アウトプットしたいみたいなものがあったってことでしょうか?
吉岡 あったのかもしれないですね。
川井 グローバルにっていうか、広く自分を表現したいみたいな感じがしますよね。
吉岡 何か、作文を書くとかは好きだったかもしれないですね。
川井 「仕事にする」とまでは思ってらっしゃらなかったみたいですけど、パソコンにどんどんのめり込んでいかれて、どんどんコンピューターの発展とか進化とか技術について行きながら成長していかれた感じは分かってきました。
吉岡 そうですね。大学に入ると、中高6年間プログラミングの「いろは」かなんかをやってたから、どう考えても学年の中でプログラムに馴染んでる方なんですよ。授業でプログラムのコースとかがあるじゃないですか。そうすると友達の代わりにレポート書いたりとか、アルバイトみたいなこともしてましたね。あと大学2年か3年の時に、プログラミングのバイトとかもして小銭稼いだりっていうのもありました。
川井 そうだったんですね。当時、結構仕事はあったんですか?
吉岡 あったんじゃないですかね。単価が安いのもあれば高いのもあって、それは友達の知り合いからくるみたいな感じでしたね。
川井 その時代になるとコンピューターはどんな形になってたんですか?
吉岡 1977年は「アップル」のAppleIIとか、オール・イン・ワン型のパソコンが出てきた元年なんですよ。マイクロプロセッサの8080とか、そういう8bitのマイクロプロセッサが出てきて、それ向けのプログラム作りなんて言うのはバイトとして徐々に出てきてましたね。
川井 やっぱり興味があったのはプログラミングそのものですか?
吉岡 プログラムそのものには興味はありましたね。コンピューターのアーキテクチャっていう、計算機の仕組み自身にも結構興味がありました。
川井 そうすると全般的にその世界に興味があったっていう感じですか?
吉岡 そうですね。
川井 大学の学部は工学部ですか?
吉岡 工学部ですね。管理工学科っていうところに進んで、そこでコンピューターを勉強してって感じですかね。大学2年生の時に留年しちゃったんですよ(笑) それで大学に5年行くことになっちゃったんですね。2年生を2回やったんですけど、慶応の場合は1年2年の教育課程は日吉にいるんですね。工学部の人たちは、日吉の奥の方の矢上台っていうところにキャンパスがあって、日吉から矢上に行くわけなんですが、そこに深い谷があってはまっちゃったみたいな感じなんですよね(笑) それで「行けなかったぞ、困っちゃったな・・・」となりました。みんなは矢上で楽しい青春生活を送っていて、自分は日吉側にいて鬱々としてましたね。「どうなっちゃうのかな私の人生は・・・」みたいな感じでしたね。そうするといろいろ考えるわけです。将来どうするかとか就職どうするかを微妙に考えるんですね。時間は無限にありますからね。そうすると「自分の得意なものは何かしら?」と考えるんですね。得意っていうほどでもないけど、好きか嫌いか考えましたね。物理が得意とか電気が得意とか化学が得意とか数学が得意とか色々あるけど「どれもそうでもないな・・・そんなに好きでもないな・・・」となって、唯一残ったのが「コンピューターは嫌いでもないぐらいかな」というのだったんですね。プログラムもそんなに滅茶苦茶好きってほどでもないけど嫌いでもないなとか、割と消去法的な感じでした。じゃあしょうがないからコンピューターを勉強してみようかなとか、そんな感じでしたね。
川井 意外ですね。
吉岡 3年生4年生は、管理工学科っていうところでコンピューターを勉強しちゃおうかなと思ってましたね。
川井 学校に真面目に行かれて、しっかり勉強した方なんですか?
吉岡 どうなんですかね、勉強はたいしてしなかったんでしょうね。だけど、1週間の内の6日間はバイトで学校に行かないみたいなことはなかったですね。授業は単位を落とさない程度に出てました。3年生の時は研究室に属してなくて、4年生の時に属していたのが統計の研究室だったんですけど、計算機を道具として使うみたいな感じでしたね。
川井 なるほどなるほど。
吉岡 その後に大学院に行って、コンピューターの研究室に入って若干勉強したっていう感じですよね。
川井 大学院に行くということについては強い思いがあったんですか?
吉岡 どうなんですかね。工学部の場合、割と大学院に行く比率が高いんですよ。ですからあんまり考えなかったですね。ただ勉強したいなとは思ってましたね。2年を2回やったんで、腹くくっちゃった部分があるんですよね。このままだといかんなっていうのがあったんです。それが1979年から80年か81年ぐらいでしたね。
川井 大学院は何年間行かれたんですか?
吉岡 マスター2年だけですね。82年と83年だったと思います。そこではコンピューターの勉強をしっかりやりました。
川井 メインの研究っていうのはあったんですか?
吉岡 研究はRDBMSの研究なんですよ。理論的なところなんですけど、非常に良く勉強しましたね。
川井 それは自分で選ばれたんですか?
吉岡 そうですね。研究室にいくつかテーマがあって、そういうデータベースをやってるグループがあったんで、面白そうだからやってみようみたいな感じですね。
川井 そのまま大学に残って研究しようっていう発想はなかったんですか?
吉岡 それはなかったです。なんかね、タコ壺にはまっちゃうような感じがしたんですよね。研究っていうものにリアリティが感じられなかったんです。感じられないって言うと語弊があるかもしれないですね。それよりも早く就職して、社会に出たいなっていう方が大きかったですね。
川井 社会に貢献したいみたいな感じですか?
吉岡 そこまで大げさなものはないんですけど、コンピューターが基盤になって社会を動かしていくっていう実感は強くありましたね。高校時代にマイクロプロセッサとかが出てきて、どんどんどんどん発展していくのを見ていて、どんどんどんどん重要性は増すんだろうなっていうような直感はなんとなくありましたね。
川井 それを社会で使ってみたいという感じだったんですかね?
吉岡 使ってみたいと思いましたね。

そして、就職
川井 就職をされるわけですけれども、最初はどちらの方にいかれたんですか?
吉岡 日本DEC研究開発センターっていうところに就職しました。当時は日本DECっていう会社と日本DEC研究開発センターっていう所は別会社だったんです。
川井 そうでしたね。
吉岡 はい。日本DECの方は販売子会社で、研究開発センターの方はエンジニア部門直下の開発部門っていうことで、子会社は子会社なんですけど別組織になってましたね。
川井 なるほど。
吉岡 それが1987年ぐらいに合併して、日本DECっていう会社になったんです。いずれにしても1984年にマスターを出て、日本DECっていう会社に就職しました。1980年代の前半は、日本のハードウェアベンダーが非常に元気のいい頃で、半導体の8割が日本製とかいう時代で、飛ぶ鳥を落とす勢いみたいな感じでしたね。一方で、第5世代コンピュータープロジェクトとか、研究開発に関してもかなり意欲的なことを官主導でやってたりして、そういうプロジェクトも面白いなとは思ってたんですけど、そこで使われてたコンピューターがDEC製のコンピューターだったんです。なので、DECっていう会社は第5世代の基盤を提供しているコンピューターを作ってる感じで面白いなと思ったんですね。そういう動機でDECに入りました。
川井 そういう動機だったんですね。
吉岡 人工知能とかAIとか時代の最先端というか、そういうことをやれたら嬉しいななんていうふうに思って、勝手に勘違いして入るわけですが、そんな夢みたいな仕事はあるわけないんですよ(笑)。それで最初に入って何をやるかっていうと、日本語版のCOBOLを作るんだということなんですね。人工知能でかっこいいなって思ってたのが「COBOLかよ・・・」ってなって、しかも「日本語かよ、なんだ・・・」みたいな感じでしたね。でもそれが現実で、日本語のCOBOLを作るわけですね。DECのランゲージプロセッサっていうか、コンパイラを作るグループっていうのが非常にエンジニアリンもしっかりしてて、エンジニアリングの「いろは」を教えてもらったっていう感じですね。
川井 それは何人ぐらいのチームだったんですか?
吉岡 日本語COBOLのチームは3人でしたね。
川井 3人でやられてたんですか。
吉岡 はい。その当時、日本語COBOLっていうもののJISになる前段階のドラフトみたいな仕様を業界団体が作っていて、日本語化っていうかプリプロセッサみたいなのを作るために、その日本語COBOLの仕様を見て、それ用にVAX COBOLっていうプリプロセッサを作ったんです。なので、その時に初めて日本語COBOLの仕様を読んだりとかしましたね。
川井 「COBOLかよ・・・」ってなったと思うんですけど、やってみて実際どうでした?
吉岡 コンパイラをちゃんとエンジニアリングするっていうことを基礎から叩き込まれた感じがしますね。開発環境をちゃんと作ったりとかコード管理システムとかモジュール管理システムとかバグ管理もちゃんとするんだっていう、当たり前の話なんですけど、そういう当たり前のことを1つ1つ仕事の中でやっていったっていう感じですね。
川井 エンジニアとしては貴重な経験をされたんじゃないですか。
吉岡 そういう意味ではラッキーですね。ある意味で言うと、商品としてのソフトウェアをずっとプロフェッショナルとして作って来れたっていうことは非常にラッキーでしたね。ラッキー、アンラッキーっていう意味で言うと、例えば日本の大手のハードウェアベンダーに私が就職したとすると、競争力のあるソフトウェア製品を作ってる会社がほとんどないから、自分がそういうものに携わって職業としてずっとやっていくっていうことは事実上難しかったと思うんですよね。たまたま外資に行ったおかげで、コンパイラを作る仕事ができたりとかRDBMSを作る仕事ができたりとかっていう経験をつめたっていうのはラッキーですね。
川井 なるほど。
吉岡 日本の企業だと決して経験できなかったでしょうね。
川井 先見の明があったんですかね。
吉岡 偶然だと思いますよ。そこまで誰も未来なんか見通せないわけですよね。例えば80年代は国産ベンダーが凄い勢いで伸びてて、コンピューター業界も「IBM」を追い越した日本のベンダーだけで席巻されちゃうんじゃないかなんていうような論調もなくはなかったわけです。結果として「IBM」のような垂直統合型のビジネスじゃなくて、世の中は80年代に水平型になって、プロセッサ作る会社とOS作る会社とRDBMS作る会社とアプリケーション作る会社っていうのが横で輪切りされちゃったんですね。そういう垂直統合型のビジネスモデルっていうのが大転換した頃なんで、そこでたまたま外資にいたっていうのはラッキーだったんでしょうね。
川井 なるほどなるほど。仕事は当初から楽しかったんですか?
吉岡 大変でしたね。大変でしたねって言うことはないんですけど、大学時代に学んでたことが中々すぐに役に立たないっていう感じでしたね。ソフトウェアエンジニアリングっていうのは、大学ではほとんど学べなかったんです。たとえば品質管理をどうすればいいのかなとか、ソースコードの管理ってどうやればいいのかとか、そういうのは本当に現場で教えてもらったっていう感じですね。
川井 なるほどなるほど。
吉岡 だけど大学で学んだとが全然役に立たなかったかって言うと、そんなことは全然ないわけです。
川井 もちろんそうですよね。
吉岡 そこはバランスの部分もあると思うんですよね。
川井 直結はしなくても繋がりとかベースになってる部分はあるってことですよね。
吉岡 そうですね。
川井 その先は、どんな仕事をされてたんですか?
吉岡 DECの中で日本語COBOLを作って、その後にいくつかプロジェクトはあったんですけど、RDBMSでVAX Rdbっていうのがあって、それの日本語化をやったんです。そのソースコードを持って、香港のエンジニアリングチームが中国語版とか韓国語版かなんかを作ったんですね。ソースコードを1つにしてアジア共通のRDBを作ったわけです。ただ問題があって、ソースコードは一緒なんだけど各国語毎に違うものができてるんですよ。そうするとメンテナンスのコストもかかっちゃうし、テストの工数もかかっちゃうし、なんかバグが起こった時にこっちでは再現するんだけど、こっちでは再現しないみたいなややこしい問題があるんで、それを1つにしてインターナショナライズしたRDBを作りましょうとなったんですね。それは当然の流れだと思うんですよ。そういう流れのもとで我々の作ったソースコードを持ってUSの本社に乗り込んでVAX Rdbに国際化の機能を付け加えるっていう仕事をしたのが89年とかですね。その当時、1980年代っていうのはソフトウェアの国際化という概念に関してはまだ十分知見がなくて、皆で試行錯誤をしていた時代なんですよ。よく日本人は欧米の連中は全然わかっちゃいないなんていうことを言うんですけど、実は米国のソフトウェアを欧州に持っていくっていうだけでも相当大変なんですね。なんでかっていうとASCIIにはaにウムラウト(¨)が付いた文字はないし、8bitで表現されるんだけど、ASCIIは7bitなんで、7bitから8bitにもっていくだけでも相当大変なわけですよ。それとかエラーメッセージがプログラムの中に埋め込まれてて、それをフランス語にするにはどうすればいいんだみたいなとこもありますよね。米国と欧州も違えば、欧州の中でもイギリスだとかフランスだとかドイツだとかで全然違うんで、「欧米は」なんていうのは大間違いです。そこで80年代の中ぐらいからDECの中では、国際化ということをどういうアーキテクチャやデザインパターンでやるのがいいのかっていうのが相当議論されていました。80年代の後半にはソフトウェアのインターナショナリゼーションについての議論をして、実際に自分のソースコードを持ってVAX Rdbのチームと喧々諤々しながらやっていたっていうのが89年から90年ぐらいですね。
川井 言語が違うと全く違うということなんですよね。
吉岡 そうですね。そこらへんの国際化をした経験があまりにもないから、結構日本人が上から目線で言っちゃう部分があって、それも大間違いだなと思ってるんです。とはいうものの1980年代に外資系に勤めていた私がベンチマークしてた部分は「富士通」とか「NEC」とか「日立」の日本語化だったりするんです。そういうところはやっぱり一生懸命参考にしましたね。だけど結局のところ、そういう先輩たちがやってたのは日本語化であって、国際化はやってなかったんですね。彼らの製品を輸出して、日本語だけじゃなくて色んな言語に対応するような経験を先輩たちが十分できてたかっていうと、実はそれはないんですね。日本ていう地域だけに閉じてたっていうのが非常に残念ですね。そういうようなこともあり、1980年代後半に国際化について色んな人たちと議論した時に、「DEC」だけじゃなくて同じことをやっているのは他の会社にもいたので、会社の壁を乗り越えたところで共同にできる共通の問題っていうのを我々は発見したなみたいな部分はあったんですよ。それは技術っていうのが会社だけに閉じこもっているんじゃなくて、横に広がっていくんだなっていうことを自分の体験として理解した最初の経験でしたね。
川井 その時期にそういう観点で仕事されてる方は少なかったですよね?
吉岡 それは多くはないですね。もう1つ自分の経験としてあるのが、漢字の文字コードがあるんですけど、番号で言うとJIS X 0208とか0212とか規格の番号で皆言うわけなんですけど、実は1988年にその日本語の文字コードの改正の委員会にいたんですね。その当時、私は30歳ぐらいなんですけど、「富士通」とか「日立」とか「NEC」の部長さんぐらいの偉い人たちが来てて、私なんか外資系で且つ30前後のぺーぺーだから、全然格下なんですよ。そういうところで議論の主軸を担ってるのは、「富士通」「日立」「NEC」「日本IBM」「東芝」「沖」、外資でいえば「ユニシス」とかの錚々たるベンダーの方と印刷業界の方、それから国立国語研究所の先生とか、そんなような方々がいて、一応この業界で標準作るわけです。当時は先程お話した通り垂直統合型だから、建前では「標準を作りましょう。標準があればみんな便利ですね」と言うんだけど、どの会社も実は自社の拡張部分があって、文字コードといってもJIS X 0208を素直にインプリメントしてる会社はなくて、メインフレーム用の文字コードが拡張漢字を持っていたから全然互換性があるわけないんですよ。だから建前では「標準作りましょうね」みたいなこと言うんだけど、メインフレームは如何にして文字コードをロックインして自分のお客さんのスイッチングコストを高くするかということにエネルギーを注ぐわけですよ。私なんかそういう事情を知らないから「標準化か、みんな理想に燃えてて素晴らしいな」なん思っちゃったわけですよ(笑) しかも外資系だから、そういう空気分かんないわけですよ。30のペーペーのお兄ちゃんなんだからね。それで皆さん大人の言葉を喋ってて、私はもうちんぷんかんぷんなんですね。それでその0208の改正をするということの意味は2つあって、技術的なものもあるんだけど、もう1つは0208では足りない文字があって追加要求が来てますということなんですね。でも追加要求が来るっていうことは、「富士通」や「IBM」や「NEC」だって「三菱」だってみんな拡張文字を持ってるんだから、知ってるわけですよ。当たり前の話なんだけどね(笑) だけどX 0208の約6000文字から7000文字に関しては塩漬けで、ここに更に6000文字とか7000文字を新規に追加するのはとんでもないと、本音を言ったらそういうことなんですよね。自分たちのプロプライエタリな文字コードとかあるから、それから新規に追加した文字コードに移行しようなんて初めから本気で思ってないんですね。
川井 なるほど。
吉岡 それで、私はそういう事情を全然知らないから「そうか6,000文字とか7,000文字もみんなと協力して新規に追加するなんて大変だな・・・」なんて素直に思ってるわけです。「今度の 0208は、文字数倍くらいになっちゃうのか・・・どうやって実装するのかな?ソフトウェアとか書き変えなくちゃいけないのかな?」なんてナイーブに思っちゃってて、会社に戻って「みんなと検討しないと、凄い大変なことになってますよ」なんてことを思ってるわけですよ。大きな勘違いなんだけど・・・。もう一方でISO(国際標準化機構)って組織があるんですね。その中にSC 2/WG 2っていうグループがあって、マルチバイトの文字コードを研究開発して標準を作りましょうっていうグループなんですね。それで1984年の私が新入社員の時に第1回会合が京都で開かれたと思うんです。要するに日本でJISの2バイトの文字コードが非常に成功して、それがあることによって例えばワープロみたいなものを皆が利用できるようになったので「標準化は素晴らしいな」となったんですね。メインフレームの人は建前としてだけで、そうは思ってないんですけどね。パソコンとかが出てきて皆で文字コードを交換できるようになって、パソコンでワープロみたいなのも出てきて、みんな便利になっていいねみたいなのがあったんですね。それで中国とか韓国もある程度参考にして、それぞれGBって規格作ったりKSっていう規格作ったりしたんですね。当然そうなってくると、それを国際標準にしましょうっていうある意味で言うと分かりやすい話になってくるわけですよ。それがSC 2/WG 2っていう所で開発されてました。最初は日本の規格と中国の規格と韓国の規格を1面ずつ持って行って大きなテーブルにマージしようなんていう感じでやってたんだけど、やっぱりなんやかんや言ってそれだけじゃ足りないなっていうことがだんだん分かってきたんですね。
川井 なるほど。
吉岡 例えば大漢和字典なんていう辞典には親字だけでだいたい50,000文字くらいあるから、そうすると16bitだとベタに使っても64,000ぐらいしか入らないんですね。大漢和でもういっぱいいっぱいだとすると、中国とか韓国とかを持ってくると16bitではちょっと厳しいかなということが研究していくうちにだんだん分かってきて、今から20年前にですね「Apple」と「Xerox」の人たちが16bitで世界中の文字を表現しようということで、Unicodeっていう仕様を提案するわけですね。バージョン1.0のUnicodeっていうのは、あまりにも杜撰だったんで、そのまますぐには使い物にならなくて国際標準の世界では1度は否決されたんだけど、とりあえず16bitでガッツリ行こうぜっていうコンセプトのもとでもってきたんですね。日本のベンダーをはじめ「IBM」も「DEC」もそうなんだけど、今ある文字コードを全部チャラにして丸っきり互換性のないものを導入するにはあまりにもコストがかかるし、「それはいくらなんでも厳しいんじゃない?」みたいな感じだったんですよ。だけどマルチバイトのユニバーサルな文字コードっていうのは絶対に必要だねっていうのが、ベースのベースではありましたね。でも、ベースのベースではあったんだけどJISのX 0208ですら同意しようとしていない日本のベンダーは「そんなもんは絵空事で、20世紀中に出てくるわけねぇ」みたいな感じで、言うのは簡単だけど誰も使いやしないし実装もコスト高くなるし、いったい誰がそんなもん使うんだみたいな感じでしたね。Unicodeを皆で標準化しようなんていうことに関しては、むしろ足引っ張るみたいな感じだったんですよ。本来なら尊敬すべき偉い人だと思うんですけど、会社の事情でエンドユーザに対して迷惑かけてるなと、そういうことを平気でやるんだこの人たちはと、30歳ぐらいの青臭い私は思うわけですよ。
川井 なるほど。
吉岡 一方で、Unicode作ってる連中の最初の提案はボロボロだったんだけど、この1つのものを皆で作ればソフトウェアの作りも簡単になるし、一発ソフトウェア書けばそれが世界中の人たちに使われるんだっていう極めて分かりやすい理想を掲げてるわけですよ。そういうのはメインフレーマーじゃなくて「アップル」とか「マイクロソフト」とか「サン・マイクロ」とかいう割と小さい会社だったりして、徐々に私はそっちの方に共感していくわけですよ。その16bitの文字を使うためにコンパイラはどういう風に変えなくちゃいけないのかとかね、それをするために「OSはどういうような仕組みにしなくちゃいけないのか」とかっていうのを必死になって考えて、例えば「マイクロソフト」ならWindowsNTにUnicodeをはじめから採用しますとか、CのコンパイラにUnicode用のwchar_tみたいなのを作りますとかいう色んなことをベースからどんどんどんどん作っていくんですね。それはそのUnicodeならUnicodeっていうことで、「アップル」も「IBM」も「サン・マイクロ」も「HP」も「DEC」のエンジニアも共同で協力してなにがしかを作るという感じでしたね。もちろん企業間競争はあるんだけど、足の引っ張り合いじゃなくて、いいものを作るっていうことに関しては腹割ってやるっていうエンジニアの非常に真面目な技術に対するロイヤリティの高さっていうのを垣間見て「おぉこいつらすごいなぁ・・・」と、こういう人たちと仕事したら気持ちいいだろうなっていう風に思いましたね。
川井 なるほど。
吉岡 そこが非常に私にとってはアイロニーの部分なんです。日本の企画委員会に入ったが故にそういうものを見て、国際標準の世界を見、180度違うパラダイムがあって、垂直統合から水平統合に世の中が変わっていく瞬間を見、「DEC」っていう会社がなくなっちゃって、90年代になって「オラクル」っていう会社に転職をしたんですね。だからある意味で言うとメインフレーム型の垂直統合の典型的な会社から、水平統合の典型的な会社へ転職したんです。その表と裏にはやっぱりJISの委員会とISOの委員会の表と裏があったんですね。ISOも本音部分ではドロドロした部分があったとしても、いかに建前を尊重して理想に近づけていくかっていうことを各社の標準化委員会に出てきている人たちエキスパートは相当真面目にやってましたね。
川井 コンセプトは完全に無視するっていう方と、コンセプトは難しいにしてもある程度踏まえた上でやっていく方っていう違いがあったんですね。
吉岡 ええ。そういったことは今の標準化やってる会社のエンジニアの方も相当頑張ってて、例えばMPEGとかH.264とかいうフォーマット系の所は皆が一緒じゃないと意味ないわけじゃないですか。そこは一生懸命パテントで戦っていたとしても、本気でやられてるでしょうね。
川井 携帯キャリアで同じような問題が起こってますよね。
吉岡 起こってますね。
川井 そこはバラバラでどうしようもないっていうのがありますよね。
吉岡 1社が支配しようとしても物理的にもうできない時代だから、そこはどこをオープンにしていくかっていうところだと思うんですよね。そのオープン化の流れに日本の会社は乗り遅れちゃってて、せっかくいい技術があるのに全部やられちゃってるっていうのは非常に残念ですよね。
川井 いまはコミュニティの主導でその辺の統合っていうのが動いてる所あるみたいですけど、企業が動かないですよね。
吉岡 ええ。だからソフトウェアなんか特にそうなんですけど、機械が作ってるわけじゃなくて、組織が作ってるわけじゃなくて、ある程度個人の力で作られてる部分があるから、そういう所をエンパワーするっていうノウハウを組織が持ってないと、やられちゃうのかなと思いますね。
川井 そんな歴史があったんですね。「オラクル」さんに移られたのは「DEC」さんの終焉に伴ってていうのがあるんですか?
吉岡 ありますね。1993年ぐらいから「DEC」が大赤字を出してるんですよね。それで日本の「DEC」もどんどんシュリンクするという方向もあって、希望退職制度かなんかで200人ぐらい募集したんですよ。そうするとやっぱり同僚がどんどん辞めていくっていうのもあり、寂しい部分もありでしたね。私はVAX RdbっていうことでUSのRDBの部門で仕事して日本へ戻ってきたわけなんですけど、その当時にRDBの部門が部門ごと「米国オラクル」に売却されるんですよ。今でこそM&Aとか色々あるんだけど、当時会社が売買されるなんて言うことを私自身も経験無かったし、想定も全然してなかったんですよ。レイオフっていう言葉も知らなかったですから。
川井 そうだったんですね。
吉岡 そんなことがあり得んのかみたいなね、「会社が首切っていいの?」みたいな感覚でいたんで、びっくりしちゃったわけですね。そうして94年の夏ぐらいだと思うんですけど、Vax Rdbの部門の200人ぐらいがごっそり「米国オラクル」に買収されちゃいました。日本には何人かのサポートグループが「日本オラクル」に常駐するんですけど、そうするともう日本ではRDBのエンジニアリングは当然ないし、開発部門はどんどん縮小されていくから「日本DEC」に残っても結構寂しいかなみたいな感じでしたね。自分のキャリアとして開発の現場にいるのは相当しんどそうだなっていうのが予感としてあって、94年の秋に希望退職の第2弾があったんですね。それに背中を押されて94年の10月に残るのもしんどいし出るのもしんどいし、どうすっかなぁというところで、最終的には転職しましたね。
川井 なるほど。
吉岡 ただ「日本オラクル」に行ったからといって、開発ができるなんていうことは誰も保証してくれるわけじゃなく、行ってから考えるかみたいな感じでしたけどね。
川井 「オラクル」以外にも選択肢はあったんですか?
吉岡 微妙だったのは、専業ベンダーって他に「サイベース」と「インフォミックス」があったんですけど、どちらも今考えるとどっか行っちゃいましたからね。やばかったですよね。それはもう1/3の確率でたまたまですよ。
川井 当時お名前はそこそこ轟いてましたけどね。
吉岡 そうですね「サイベース」の方が勢いあったかもしれないですね。「インフォミックス」は「インフォミックス」で「アスキー」が凄い勢いで売ってましたからね。どこも相当元気良かったですよね。
川井 運ていうのはあるわけですよね。
吉岡 運ですよね。私の同僚でもね「インフォミックス」に行った人がいっぱいいるし、「サイベース」行った人もいっぱいいるしね、それはしょうがないですよね。
川井 なるほどなるほど。「オラクル」ではどんな仕事をされたんですか?
吉岡 「オラクル」ではですね、技術系のところに入ってOEMベンダーさんのサポートみたいな感じでしたね。当時はOracleを色んな日本のベンダーさんのマシンに移植してもらうっていうのが仕事でした。今じゃちょっと考えにくいんですけど、日本のベンダーさんは独自UNIXみたいなのも持ってたんですよ。「ソニー」もNEWSみたいなのありましたし、「日立」もOSがあったし、皆独自のOSがあったんで、独自のUNIX向けにOracleをポーティングしてもらうみたいなね、そんなような形でしたね。
川井 そうだったんですね。
吉岡 「日本オラクル」に入るじゃないですか。それで1995年1月17日の関西で震災があった日に、Oracle Open Worldっていうのが横浜で開催されたんですよ。その時に、成田からラリー・エリソンも来るしバイスプレジデントが何人も来るから迎えに行くとかいってマイクロバスかなんかでピックアップしに行ったりとかしてたんです。結構95年の前半は日本ていう地域はバブルが崩壊したり、大震災、東京のサリンの事件もあったですけど、相当どんよりしてるんですね。その頃の私は、Oracle 8のチームがOracle 8のインターナショナリゼーションをするエンジニアを募集してるんだみたいな話があって、そしたらなんかVAX Rdb時代の上司が推薦してくれたんですよね。それで「喜んでやります」ということで、シリコンバレーに行くことになったんですよ。希望退職で転職するときに、最後のメールをお世話になった人に書いていて、その中の一人に「DEC」時代にお世話になってたRDBの東海岸のボスがいて、「今度辞めるんだ、またどっかで」みたいなメールをしたんですね。そしたらすぐに「どこいくんだ?電話くれ。仕事ないんだったら、うちに来ないか?」とメールが返ってきたんです。ありがたいことを仰るわけですよ。それで「いやいや違うんだ。DECは辞めるんだけど今度入る会社はオラクルだから、また何かあったら宜しくね」みたいなやりとりがあったのを忘れてたんだけど、Oracle 8のインターナショナリゼーションをするエンジニアが必要だなんてことで「じゃあ私行きますよ」なんてそんな感じでしたよね。
川井 シリコンバレーへ転居されたんですよね。
吉岡 転居ですね。シリコンバレーに行って銀行の口座を作って車を買ってアパート探して、みたいな感じですよね。
川井 シリコンバレーは環境的にはいかがだったんですか?
吉岡 エンジニアとしては非常に過ごしやすかったですね。気候もいいし、満員電車じゃないし、車で15分から20分ぐらいで会社に着きますからね。
川井 クリエイティブなことがしやすい環境だっていう風には聞きますよね。
吉岡 環境は非常にいいと思いますね。さっきの話の続きになるんですけど、私が思ったのは日本の場合はエンジニアが会社にくっついちゃってるんですよね。
川井 拘束されるけど依存もしてるっていう感じになってますよね。
吉岡 依存もしてますよね。それで私の偏見かもしれないんだけど日本の場合は、技術と組織とがあった時にどっちをたてるかっていうと、組織かなと思うんですよね。平気で組織になっちゃうんですよ。私がシリコンバレーにいて思ったのは、彼らは会社には所属はしてるけど依存はしてないということなんですね。
川井 なるほど。
吉岡 たまたま今「オラクル」っていう会社にいるけど、ひょっとしたら次の日に「インフォミックス」に行くかもしれないし、「サイベース」に行くかもしれないし、それは悪いことでも何でもなくて自分が専門としてる技術を求めてくれる会社があれば、そこに移動するのは当たり前だと思うんですね。その時の救命胴衣は、どれだけ技術に対して真面目に向き合ってたかっていうことなんですよね。会社の都合をごり押ししてて技術的にどう考えてもそれはおかしいっていうことを主張したAさんがどこか他の会社に移ったとしても、ちょっとピント外してるなっていう評価であんまり相手にされないですよね。そうすると会社での評価はもちろん重要なんだけど、ある種の技術コミュニティの中でその人の絶対値が評価されていくには、常に切磋琢磨して技術勉強して高めていくしかないと思うんです。
川井 なるほど。
吉岡 そういうプロフェッショナルの世界が、シリコンバレーっていう場所の競争力を保っているのかなと思います。単に気候がいいとか雨があんまり降らないとか生活環境がいいとか悪いとかじゃなくて、シリコンバレーの競争力はそこを大切にしているのかなと思うんですね。だとしたらば例えばベンチャーキャピタルがいるとかいらないとか制度的にどうだこうだじゃなくて、そういう社会的な価値観がないかぎり日本でどんなに税制を変えようが、キャピタル投入しようが、あんまり関係ないような感じがしましたね。
川井 なるほど。

最近のキーワードは「勉強会」
吉岡 私が最近、勉強会とか熱に浮かされたように言ってるのは、そういうコミュニティを作りたいからなんですよ。
川井 なるほど。
吉岡 会社に依存する人じゃなくて、技術に真面目に向き合う人をどれだけ発見してそれを社会として担保していくのかということなんです。その人たちがどう流通し、学ぶ場所をどう提供していくのかということなんですね。そういう社会の方が、会社にずっと依存している社会よりも一人ひとりにとっては幸せに近いだろうなんていうことを10年前にシリコンバレーという場所でなんとなく見聞きしましたね。
川井 素晴らしいですね。
吉岡 例えば95年に初めてシリコンバレーに行ってね、スーパーとか電気屋さんでフリーペーパーみたいのがあって、後ろにカレンダーがついてるわけです。そのカレンダーには英語の教室とか趣味のなんとかとかサークルのことが書いてあるんだけど、その中にコンピューターのサークルがいっぱい載ってるわけですよ。月の何曜日にはどこどこで集まるよとか会費$5とか勝手に来ていいよとか電子メールの連絡先とか書いてあるわけですね。そういうフリーペーパーを見て「面白そうだな、今度行ってみるか」みたいなことで、非常にインフォーマルな集まりがあったんですね。例えばスタンフォード大学では毎週金曜日の午後3時ぐらいだったと思うんですけど、データベースのセミナーみたいなのがあって、その大学の先生が講義するだけじゃなくて、「オラクル」にいる人とか「マイクロソフト」とか「IBM」とかの人が小一時間ぐらい自分のところの製品の話をするんですね。学生さんはそれが単位になるからちゃんと出席はするし、誰が入ってきてもよくて、近所のエンジニアが勝手に入って質問したりするのも良いみたいな感じでした。それって学生にとってはもちろんメリットがあるんだけど、それ以上に技術者にとっても自分の技術が絶対値としてどこら辺にあるのかなということを認識できるというメリットがあると思うんです。自分たちの製品が絶対値としてどこら辺にあるのかなっていうのを切磋琢磨するという意味では、スタンフォード大学のような大学が、ある種の非武装地帯みたいになっていて皆がカジュアルに集まれるという感じでしたね。
川井 なるほど。
吉岡 例えば日本では当時ね、自分がソフトウェアの日本語化をやって、国際化やって、RDBMSとかで「こういう工夫をしました」なんていうことをカジュアルに誰かにお話して、それについて喧々諤々やるっていう場所は残念ながらなかったですね。
川井 そうですよね。
吉岡 もちろん学会とかはあったけど、学会もある種研究者のたまり場であってエンジニアが今困ってる問題をガシガシっていうのは、ゼロとは言わなくてもそんなにはなかったです。私のアンテナには、ほとんどひっかかってなかったですね。たぶん量も多くなくて「日本UNIXユーザー会」とか「ソフトウェアエンジニアリング・アソシエーション」とかあったことはあったんだけど、ちょっと違ってましたね。
川井 そうでしたか。
吉岡 でもシリコンバレーはそういう勉強会みたいなのが山のようにあって、カジュアルに集まれるし、あんまり会社にバインドされてないんで、知り合い同士で飯食いに行くときに単なる与太話から技術的に凄いディープな話とかっていうのがガシガシできるし、それは面白かったですね。
川井 そうですね。最近そういう所がやっと増えてきたというのはありますよね。
吉岡 人材の流動性じゃないですかね。それである程度インターネットがあるんで、何をやってるかっていうのはWebかなんかに書いておけば誰かが発見するじゃないですか。そういう勉強会も日々活発に行われてるし、自分で立ち上げてる人もいますよね。
川井 そうですね。
吉岡 そこではやっぱり、かなりリアルな本音ベースの話が広がってきてて、凄い心地よいですね。そういうのは。別に単なる飲み会でもいいんですよ。
川井 そうですね、わかります。
吉岡 単なる飲み会でも、そこで本音の情報が流通してれば、だんだん仕組みとしておかしいことっていうのが炙り出されてきますよね。それこそ多重下請け構造がイカンということで、皆がそれ以外の方法を業界全体として模索するきっかけになれば変わっていくだろうし。
川井 そうですね。
吉岡 そこは非常に楽観してますね。Web系のサービスを提供するところなんていうのは特に若手の技術者が自分の技術に対して凄い一生懸命真面目に取り組んでて、私もう頭下がっちゃう思いがあるんですね。
川井 なるほど。
吉岡 彼らなんか酒飲みながらも議論してますからね。自分の技術に関してね。それで、下手すると飲み会の後に会社に戻ってそのアイデアを早速実装しちゃったりして次の日にはサービス作ってそのプロトタイプ見せたりとかねするんです。そこにはやっぱり自分のサービスに対する誇りとか責任感ていうのは非常にありますよね。だからそこはむしろ大手のやらされてる感を持ってだらだらプログラムとかソフトウェア作ってる人よりも、小さい聞いたこともない会社のソフトウェアサービスの方が魂こもってたりするところっていうのはあると思うんですよね。
川井 なるほど。Webはやっぱり業務系システムと違って、物を売ったりとか人を集めたりとか目的が全然違うんですよね。違うスキルとかモチベーションとか要求されますよね。
吉岡 そうですね。この間も「Wassr」っていうマイクロブログみたいなのを作ってる人と飲む機会があったんです。
川井 モバイルファクトリー松野さんですよね?
吉岡 松野さんです。インタビューされてましたよね?
川井 「Engineer25」というコーナーに出ていただきました。
   http://www.web-career.com/contents/engineer25/1.html
吉岡 自分のサービスに世界中で一番興味があるのは松野さんなわけですよ。
川井 はい、わかります。
吉岡 自分のサービスなんで当たり前の話ですよね。
川井 そうですね。
吉岡 それで、こっちの方では「Wassr」の気に食わないところで盛り上がっちゃってて、別のところでは全然違う話をしてるわけですよ。だけど彼らにとってみれば自分の目の前の酔っぱらいのオヤジが「すげえ、お前作ったの?」とか言って、「これはいいね」みたいなことを言ってるとやっぱり気持ちがいいだろうし、励みにもなるだろうと思うんですね。別のところで「これだめだよ」みたいなことを言ってたら、「じゃあそれ直すか」みたいな話になってね。飲み会の席なんだけど間違いなく企画会議なわけですよ。
川井 そうですね。
吉岡 それで情報ロスいわゆる損失ゼロで、開発者とユーザが同じテーブルにいるわけじゃないですか。従来型のウォーターホール・モデルだと誰かが要求仕様書書いて誰かが設計書書いて詳細設計を書いてコードを書くっていう人が全部違って、どこに魂込めんのよというところですよね。
川井 確かにそうなっちゃいますね。
吉岡 いつのまにか文字を書いている最中に魂消えちゃうわけですよ。だけど飲み会では、へべれけになりながら「おまえの作ってるサービスすげえよ。どんどんやれよ」みたいに酔っぱらって言ってるオヤジもいれば、「ここのボタン押しにくいよ」とか言ってるお兄ちゃんもいるんですよ。その中で世界で一番そのサービスに関してコミットしてて興味を持ってる松野さんはそこを受け止めて「じゃあ、こういうあれだったらどう?」「それいいね」とか、バグかなんか見つけちゃった人が「これやったらXSSいくぞ。ほら落ちたよ、Wassr」みたいなね「ああ、やめてくれよ。いい加減にしてくれよ」みたいなことやり取りをしてるんですよ。
川井 じゃあ、飲み会がアジャイル開発の現場みたいなんですね。
吉岡 本当にそうですよ。残念ながらそれは大手は真似できないですよ。そうなってくると「NTTデータ」とか「ISID」が真似できるかっていうと、残念ながらそういうやり方ではないじゃないですか。
川井 そうですよね。
吉岡 そうなってくるとね、例えば「NTTドコモ」とかねgooとか色々やってるじゃないですか。電話会社系のWebですね。それをどういう作り方してるかっていうと、なんか仕様書書いて、単価が安いということで外注先の若いお兄ちゃんにJavaかなんかで作らせるんですよ。そういう作り方で競争力あるわけないと現場の人はみんな理解してるんだけど、「じゃあなんで経営者はそれを理解しないの?」と、「経営者馬鹿なの?」と、そうじゃなくて正社員の君がスーパーハッカーになって松野さんと勝負しなくちゃいけないのに「単価安いから外注した方が」なんて言っているっていう話なんですよ。
川井 そうですよね。大手いくとほとんどコードを書く機会がないですからね。
吉岡 たとえば大手の会社がね、未踏のエンジニアを雇用できないかなんて言うとそんなことはなくて「Google」だっていっぱい雇用してるわけですよ。電話会社のでかい所がポータルサイト作りたいんだったらば、従来型のウォーターホールじゃなくて、アジャイルで飲み会ドリブンな開発をできるようにしなきゃ駄目だと思うんですよね。
川井 そうですね。確かに仰るとおりですね。
吉岡 直属の上司ぐらいはそういう話が何となくわかるんだけど、上司の上司とか役員になると話通じねえんだよな。
川井 なるほど。
吉岡 宝の持ち腐れですよね。
川井 そうですよね。やっぱり、そういう方はほとんどSIerから辞めていきますよね。
吉岡 そういう意味で言うとね、儲かってるのか儲かってないのかは分かんないですけど「はてな」あたりで楽しそうにやってる連中がいるわけですよ。
川井 そうですね。
吉岡 大学生がインターンかなんか行って、ひと月もやっていると感化されちゃってね、「これは日本を変えるな」みたいな感じになるわけじゃないですか。「mixi」でもそうだろうしね。今の「livedoor」とか「GREE」でもそうだろうしね。WEB2.0系の小さい聞いたこともない会社っていうのは、そうやって徐々に開発研究基盤を作ってきてて、東京には「Google」みたいなジャイアントはいないけど、「mixi」があったりとか「はてな」があったりとか1つ1つのサービスって、結構尖ってるのがあると思うんです。それで、その連中のトップノッチのエンジニアっていうのは、みんな飲み会でつながってるんですよ。私、ラッキーなことに、そういう連中とほとんど顔見知りなんです。
川井 そうですよね。
吉岡 それはもう「GREE」に行こうが「楽天」に行こうが「ニフティ」行こうが、現場の20代30代のお兄ちゃん達とは、大体顔見知りです。なんで、本当に1円にもならないんだけど(笑)、ある意味でいうとバーチャルなGoogleっていうのは東京にも既にあるんですよね。
川井 なるほど。
吉岡 だから、まつもとゆきひろさんは東京にはいないけどバーチャルには日本という地域の中で象徴的な存在としているわけだし、本当に大企業が気がついてない新しい価値の作り方っていうのが東京地方にはあって、シリコンバレーよりもはるかに競争力の高いものを持ちつつある予感がするんですよね。それでもし足りないものがあるとすればやっぱり、我々のような宝物の原石がいくらでもあるなかで、それをお金に換えるエンジンとしての世界レベルの経営者かなと思うんですよ。
川井 なるほどなるほど。
吉岡 何年か前のビットバレーみたいな胡散臭い話じゃなくて、実際にサーバー1000台規模を動かしてる若手の連中がいるわけだから、日々それをノンストップで動かしてる現場があってね、そういう連中のテクノロジーとか技術を生かしてお金にするような大人の経営者っていうのがあまりにも少ないかなと思うんです。
川井 なるほど。
吉岡 それさえ発見できればね、凄いエンジニアが山のようにいるんですよ。
川井 そうですよね。
吉岡 だって未踏だけでも200人とか300人いるわけでしょ。
川井 そうですよね。
吉岡 彼らが一人二人で孤立してて、その力を発揮できないのはもったいないですよ。
川井 そうですね。まつもとゆきひろさんもRubyをJavaと比較されるときに、JavaにはパトロンがついたけどRubyにはまだパトロンはついてないよねっていう話をされてましたけど、オープンソースの成長にお金っていうのはやっぱり大事なんですよね。それが経営とやっぱり結びつくのかなというところなんですけど、お金を出してそれをマネージメントするっていう人がなかなかいないっていうのが現状ですよね。
吉岡 それをどう育てるかっていうところだと思うんですよ。私ね、MBAっていう仕組みがいいか悪いか分かんないんだけど、少なくとも米国では卒業した先輩が若手をトップノッチの経営者として育てるっていうことをある程度社会としてやってるじゃないですか。日本の社会にはプロフェッショナルな経営者はほとんどいなくて、大手の大企業の中のたまたま偉くなった人はいても、自分で会社を興してそれを世界的な規模の会社にした人なんかほとんどいないですよ。
川井 そうですよね。
吉岡 そういう大手で部長から本部長になり役員になってたまたま社長になった人っていう人が、若手の海千とも山千とも分かんないお兄ちゃんをどう育てるかっていうことにインセンティブを持ってるかっていうと持ってないし、それが社会的に重要だっていうことに気がついてるかっていうと必ずしもそうでもないんです。じゃあMBAみたいな経営大学院みたいなの作って若手のプロフェッショナルな経営者を育てるっていうのもほとんどされてないじゃないですか。
川井 そうですね。ベンチャーより、とりあえず大規模に行っちゃう人が多いですよね。
吉岡 だからといって、なんでもかんでも起業すればいいかっていうとそんなことはないんだけど、若い未熟な人たちをどう育てていくかっていうのを社会全体がもう少しバックアップするようなことを考えてほしいななんて思いますよね。
川井 なるほどなるほど。おっしゃるとおりですね。日本には経営のプロはいなくてですね、そういう文化もないですし、一回経営やっちゃうと転職できないとか噂になったりする風習がありますよね。役員やってると履歴書ではねられちゃうみたいなとこありますよね。実はリスクは大きいけどあまりメリットがないっていう見方もできますよね。
吉岡 私はそこが少しずつ変わっていけば変わる思うんだけど、私の半径5mにはそういう人はあまりいないんで、困っちゃうんですよね。
川井 もう1つのプランとして、エンジニアの中からそういう人がでてこないかなと期待してる所はあるんですけどね。トップエンジニアの中でも経営能力を身につけて立っていく人って日本だと少ないですよね。それに期待を持ってる所も実はあるんです。
吉岡 あんまりいないですよね。相当難しいでしょうね。私だって本当に自分ができる範囲のことしかしてないんですよ。半径5mぐらいのところですよ。周りを変えるなんてことできるわけないんだから、自分を変えていくしかないし、自分が面白いと思ったことを「面白かったよ」って誰かに言って、世界のうちに一人でも「面白かったか。じゃあ真似っこしてみよう」っていうことを考えてくれる人が出てくれば面白いですからね。
川井 でも「ミラクル・リナックス」さんの立ち上げに参加するなんて言うのは、世間から見ても結構ドラマチックな選択じゃないですか。それって半径5m以内に思えない所があるんですけど、それはどういう解釈をすればいいですか?
吉岡 実はそれは私としては全然違和感なくて、中学高校大学生ぐらいの時にコンピューターに出会って、マイクロプロセッサに出会ったわけじゃないですか。1975年に「SCIENTIFIC AMERICAN」の日本版の「日経サイエンス」っていうのを親に買ってもらって毎月読んでたんですよ。そうすると色んな科学技術の最先端の記事があって、マイクロプロセッサのICの写真がカラーで出てるわけですよ。これは「インテル」が作った4004っていうマイクロプロセッサで、ここにメモリをつけるとコンピュータになって、電卓用に最初使われたみたいに書いてあって、$100ぐらいとか値段も書いてあって、大きくなったらこれ買いたいなとか思ってましたね。
川井 なるほど。
吉岡 将来の夢はコンピューターを買うことだなんて高校生は思うわけですよ。それで、その時に「これは世の中を間違えなく変えるな」というのを直感したわけですよ。それから、1975年にビル・ゲイツは「マイクロソフト」っていう会社を立ち上げるんだけど、そういう意味で言うとビル・ゲイツも私も梅田望夫も高校時代に数学研究会で一緒だった連中も、職業にするかしないかは別としてマイクロプロセッサで世の中が変わるっていうことを間違いなく確信していたわけですよ。
川井 なるほどなるほど。
吉岡 それはまぁおいといて。就職するにあってマイクロプロセッサとかマイクロコンピューターの会社が延びてるわけですよね。それで「DEC」ってう相当大きな会社に入ったんですけど、「DEC」に入ってびっくりしたのは社内のコンピューターっていうのが全部ネットワークでつながってるんですね。今でこそ当たり前の話で、パソコンには全部IPアドレスがついてるじゃないですか。でもその当時コンピューターっていうのは単体で使うものであって、ネットワークなんて言うのは非常に特殊なものだったんですね。だけど「DEC」の社内はピアツーピアで、全部のコンピューターがDECネットでつながってました。しかも海外の拠点とも国際回線をつないで、米国本社にくっついてるわけですよ。そうすると「DEC」のエンジニアリングネットワークはバーチャルで1つなんですね。だから彼らが作ってるソースコードをネットワーク経由でコピーする、今でいうとFTPみたいなものも簡単にできるし、それが当たり前でした。
川井 なるほど。
吉岡 そうすると「ネットワークは世の中を変えるな」と確信するわけですよ。米国のネットワークに当時アーパネットとユースネットっていうのがあって、「DEC」社じゃゲートウェイは持ってるわけですよ。実はそこから電子メールもアーパネットに出せるたんです。日本から社内ネットワークを通じてインターネットに出られるわけですね。当時1984年ぐらいの時点の日本ではまだ電子メールのネットワークがなくて、東工大と慶応と東大が村井純さんを筆頭にして石田先生とか集めてですね草の根のネットワークどうやるかなみたいなことをやってて、米国にはコンピューターのネットワークがあるらしくて電子メールっていうのを使ってるらしいとか言ってるような感じでしたね。
川井 なるほど。
吉岡 村井さんたちが日本国内のネットワーキングを始めてKDD経由でUSにやってた時代に、私はもうとっくに社内ネットワークでインターネットとかしてたんですね。その時にも「ネットワークは世の中変えるな」と確信したんですよ。
川井 なるほど。
吉岡 それから、オープンソースに出会うわけですよ。例えばマイクロプロセッサに出会った時にマイクロソフトに就職するっていう選択肢もあったんだけど、私は選ばなかったんですね。インターネットが出てきた時には、例えばIIJとか国内でもいくつかプロバイダ的なところはあったしベンチャーもあったけど選ばなかったんですね。それで、3つ目のオープンソースっていうものに出会った時に、これはインターネットに匹敵する以上のインパクトのある方法論だし世の中を変えるなと確信してですね、ソフトウェアの作り方に関してはプロプライエタリなソフトウェアっていうのが結構やばくなるだろうなと思いましたね。
川井 そうなんですね。
吉岡 「オラクル」っていうプロプライエタリの「マイクロソフト」に次ぐ所にいたがゆえに「ここはのほほんとしてたらやばいんじゃないの?」と「どうするかな・・・」と、インターネットに軸足を移せなかった自分に対して最後のチャンスだろうなっていうように思ってましたね。そこでオープンソースという所に何か希望を見出して、これからはやっぱりオープンソースだろうなっていうことでちょっと飛び込んじゃいましたね。
川井 なるほど。
吉岡 そのくらい衝撃はありましたね。
川井 なるほどなるほど。
吉岡 10年たってみるとやっぱりオープンソースっていうのはある種、世の中を凄い変えていましたね。
川井 そうですね。
吉岡 企業が知的財産権を含めてロックインするモデルから、どうやってシェアして皆が儲けるかっていうようにビジネスモデルすらもかなり変わってきてて、コミュニティ主導の開発っていうことに関してはほぼ理解されていてパラダイムが変わっちゃいましたよね。
川井 大手SIerがオープンソースって言い始めてますからね。
吉岡 言ってますね。だからそこは10年たってみてやっぱり自分の直感は結構正しいものであったかなと思いますね。とはいうものの、それで十分食えてるかっていうのはまた別の話で、もちろんぼろ儲けはできないと思うんですけど、もう少し儲けててもいいかなみたいな部分はありますね(笑)。
川井 なるほど。そこもやっぱり経営者なんですかね。オープンソースとか技術をお金に変えていくっていうところですよね。確かにJavaに「サン・マイクロ」が投下したようにするとああいう会社ができるのかもしれないですね。
吉岡 とはいうものの「レッドハット」さんとかもいい感じで成長されてるしね。オープンソースに特化した会社っていうのも普通にあるし、オープンソースそのものはコモディティ化してて珍しくもなんともないっていう意味ではやっぱり10年間で世の中変わったと思うんですよね。

今後について
川井 今後もう一発何かっていうのはあるんですか?
吉岡 それも良く分かんないんですよ。私はもう本当に自分の半径5mのところを一個一個選んでいたら、たまたまここにいたって言うだけの話なんです。何か壮大な夢があって、そこに近づく努力をしてるかっていうと必ずしもそういうスタイルじゃないんです。なにか一個一個積み重ねていけば気が付くとここにいましたみたいな感じです。今日全然話さなかったんですけど「カーネル読書会」っていうのをやっていて、それも9年前に日本に戻ってきて暇だしやることもないし、最近Linuxが流行ってるみたいだからちょっとLinuxをやってみるかなみたいな感じで始めようと思ったんです。それでメーリングリストかなんかに入ったんですね。そこで誰かに教えてもらったことで、どこかの公民館の会議室を借りてソースコードを見てみようっていうのを2,3人ぐらいは興味持ってくれる人いるかもしれないなっていう感覚でメーリングリストに投げたところ、第1回の時に20人ぐらい集まっちゃったわけですよ。ソースコード読みたいなんて思うのは世界で私ぐらいかななんて思ってたのが、そうじゃなくて意外と多いんだなと思ったんですね。ということで一発目やってみたら思いのほか人が集まっちゃって、思いのほか楽しかったので2回目やってみることになりました。それで2回目やってみたら絶賛の嵐で、またやろうぜっていう話がでて、3回目やってみたら・・・っていうことで別に何回もやるつもりじゃなかったんだけど、たまたま面白かったんでやってみたら90回ですよね。
川井 すごいですね。
吉岡 別にはじめから100回やるんだなんていうことを言ってるわけじゃなくて、面白かったら続くし、つまんなかったら立ち消えだよねと、大変だったら続かないだろうし、全然負荷になってなかったら続くだろうしみたいな感じですよね。
川井 なるほど。
吉岡 お題を提供してくれる人がいないと話にならないし、且つ参加してくれる人がいないと話にならないじゃないですか。
川井 そうですね。
吉岡 それで不思議なことに「今度こういう話させてよ」っていう自薦組も出れば他薦組も出て、ネタが面白いと参加する人も出てくるから雪だるまを1回まわし始めるとグルグル回っていくっていう感じですよ。
川井 なるほど。
吉岡 あんまり考えずに場当たり的に生きてるうちに今に至るから、例えば今後10年の設計図があって、そこに向かっていくかっていうよりも今楽しいと思っていることをやってるうちに10年たってましたみたいな部分があるのかなと思います。
川井 じゃあなにか魅力的なものに出会って、心が動けばそこにまた飛び込むぞっていうような準備は何時でもあるというような感じでしょうか?
吉岡 そんなところはありますね。とはいうもののね、この10年間見てきてやっぱりコミュニティドリブンななにかっていうのには凄い興味があるんです。かつては標準化委員会がプログラミング言語を会議室で決めてたわけじゃないですか。ところがRubyにしろPerlにしろコミュニティが決めてるわけですよ。
川井 確かにそうですね。
吉岡 まつもとゆきひろさんが親玉で最も影響力ある人なんだけど、別にまつもとさんが100%じゃなくて徐々にいろんな人が力を持ってきて、良いアイデアだったらばまつもとさんを説得してそれをコミュニティが作って実装するみたいな感じですよね。そういうスタイルのプログラミング言語の開発だけじゃなくて色んなものがそういうスタイルになってるんですね。
川井 なってますね。
吉岡 まあLinuxも典型ですしね。そういうスタイルでソフトウェアを作る人たちが、徐々に増えてきているので増やしたいなと思ってるんですよね。それはIT人材の育成とか発掘なんていう風なラベリングになるんだけど、私は別にそんな大層なことを思っているつもりじゃなくて若い人と一緒に酒飲みながらああだこうだやって「こっちよりこっちが面白いよね」「そうだね」とか、まあ勉強会みたいなやつだと思ってるんです。
川井 なるほど。
吉岡 コミュニティのOJTみたいになっちゃってるわけですよ。この髭のオジサンが勉強会にきて若い人がつまずいてる所を見ると、いつか通った道なんですね。それで、たまたま私はこんな風にやったよということをポロッと言ったりとかするんですね。それは別に助けるつもりでも何でもなくて、こういう風にやったら私はうまくいかなかったとか、こういう風にやったら成功したよっていうことを言うだけなんです。そうすると後は転んだA君、B君は自分で起き上がるしかないわけですよ。
川井 そうですね。
吉岡 例えばそういうような所で何か聞かれて自分の知ってる範囲であれば答えることもできるだろうし、知らないことであれば分かんないし、一緒に何か作ることもあるかもしれないですしね。特に若手と一緒に何かをしたいなっていうのは凄くありますね。それがU-20プログラミング・コンテストであったりとか、夏にやったセキュリティ&プログラミングキャンプであったりとかで、そういう若手と一緒に何かをするっていうアクティビティですね。
川井 なるほどなるほど。
吉岡 今年はプログラミングキャンプで17人の人たちと4泊5日したんです。それで今年17人じゃないですか、来年20人ぐらいになってるとして、それを10年続ければ約200人ぐらいになるわけですよ。
川井 確かに!
吉岡 すごいですよ。
川井 すごいですね。
吉岡 その200人の人たちが横でつながって縦でもつながってね、同窓会、OB会、OG会みたいな感じにもなりますよね。そうするとその200人のコアな人たちが新しい価値をどう提供していくか、どういうようなITとかソフトウェアあるいはネットワークを使って社会に貢献していくかっていうのは凄い興味がありますね。
川井 なるほど。
吉岡 大人の役割がもしあるとすれば、そういう人たちにビジネスを提供して健全に働けるような雇用の場所を提供することかなと思うんですね。まあさっきの経営論に結びつくんですけどね。
川井 そうですね。
吉岡 私は若い元気のいい子をどんどんどんどん発見して場所作るから、大人の人たちはその200人を雇用してください。例えば今回の17人は、学校に戻るわけじゃないですか。そうすると「夏休みこんなとこ行ったよ、面白かったよ」っていうようなことを周りに言うわけですよ。あるいはブログに書くわけですよ。周りだとせいぜい10人ぐらいなのが、ブログに書けば100人ぐらいの人に「こういうことやってんのか。面白いな」と伝わり、その100人を見た人がまた自分のブログでちょっとしたことをやっていく、そういうことを繰り返していくと200人がコアになるんですね。ひょっとしたら新しいソフトウェアの作り方を実地体験して、そういう作り方が面白いということを肌で理解してる人たちが何万人も出てくることになるんです。その何万人も出てきた人たちが、新しい産業を作っていくと思ってるんですよね。だとしたら池に石を投げて波紋を広げるように、私が今回会った17人なら17人と一緒になって楽しいことができたら面白いなと思うんです。そういうのはやっぱりなんやかんや言って、1つの企業とか1つの何かに所属してるというよりも、広い意味でのコミュニティっていうか社会全体がそういう人たちを大切にして、一緒に成長して豊かに幸せになっていくっていうビジネスモデルかなと思うんですよね。私はね、そういうこと言うと笑われちゃうかもしれないけど大変だとは思う反面、不可能ではないと思うんですよ。青臭い理想かもしれないですけど。だけど大人である私が青臭くてもそういうことを口に出して言うと、自分のできる範囲で言えば「カーネル読書会」を1回でも続けて、面白いことやってる若者には飲み会でもいいから「それ、すげえ面白いよ」と言っていくわけです。別にお金も全然かかってないわけですよ。そこでそれを面白いと思った人が一人でも出てくればブログに書いたりとかなんかして、また面白いサービスを作るわけです。そういう人たちが新しい価値っていうか、なにがしかを社会に提供して、よりハッピーになれると、なんかそんなような感じですよね。
川井 なるほど、わかりました。私の役割としては、そういうところの方々を上手く掬いあげて良い仕事にくっつけてあげられるといいななんていう感じだと思うんですけどね。
吉岡 そうですね。まあ人材をいかに流通させるかっていうのは、日本の社会が脱皮しなきゃいけない部分かなとは思うんですよ。私はシリコンバレーで少なくとも企業に依存する生き方じゃない生き方をしてきて、もちろん大変な部分も沢山あるんだけどそうじゃない所が結構清々しく見えてね、それを自分の半径何mの中で実現できたら嬉しいなと思います。
川井 よくわかりました。本日は2時間もの長い時間、大変深い話をありがとうございました。とても楽しかったです。
吉岡 いえいえ、こちらこそありがとうございました。

<プロフィール>
吉岡 弘隆 (よしおか ひろたか)
日本OSS推進フォーラム ステアリングコミッティ委員
OSDL Board of Directorsを歴任
カーネル読書会主宰

1995年~1998年、米国OracleにてOracle RDBMSの開発をおこなう
1998年にNetscapeのソースコード公開(Mozilla)に衝撃をうけ、オープンソースの世界に飛びこみ、ついには会社も立ち上げてしまう。
2000年6月 ミラクル・リナックスの創業に参加。
2008年6月 取締役CTOを退任し一プログラマとなった。
2008年   経済産業省商務情報政策局長感謝状、楽天テクノロジーアワード2008金賞受賞
2009年3月 独立行政法人情報処理推進機構(IPA)へ出向

ユメノのチカラ http://blog.miraclelinux.com/yume/

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